星の降る夜

冬の夜は空が綺麗で良い。先日道を歩いていたら夜だと言うのに道に僕の影がうつっている。見上げれば何とも明るい月がそこにあった。月の周りに少し明るい輪が出来ている。仕事柄帰るのは遅く、いつでも夜道を歩くことになるのだが、そんな月を見たのは久し振りだった。

僕は小学生の頃の夏、母方の故郷である香川県の丸亀で素晴らしく綺麗な夜空を見た。そこは全くの田園地帯で周囲を見たら全て水田、隣りの家は数百メートル離れていてそれさえ築山の向こうで見えないという所だ。街灯など当然一本も無く、夜になれば辺りは真っ暗だ。そこで僕は星は上ではなく横にもある事を知った。頭の上から山の稜線までびっしりと詰まった星。その数は驚くほど多い。空に遠近感はなくなってしまい足元まで星に囲まれているような気がして、本当に星が掴めそうな気になってくる。自分が上を向いているのか横を向いているのか実感が薄れてきて、しばらく見上げているとくらくらする。素晴らしく美しい。星がキラキラまたたくと言うのは本当だと判るし、突然それらが自分のところに落ちてきそうな気がして怖いものだ。そこで初めて天の川をはっきりと見た。成程これは星の川だなと思った。

京都ではもう空が明るくなりすぎて星空を見ることは殆ど出来ない。それでも冬の寒い夜に少しは夜空を楽しむことが出来る。僕はそんな時、小学生の頃に見た夏の星空を今でも思い出す。

だが同時に、そして唐突に僕は高校の頃に習った赤色の星は表面温度が低くてなどというフレーズを思い出してしまう。僕らは日々科学が自然を解読して行く中で生活している。つまり解釈された自然は既に僕らの生活の一部になっていると言える。しかし解読されたからと言って自然を感じ、楽しむ気持ちは無くなりはしていない。赤い星の色の理由を知っているからと言ってそれが詰まらないものになるわけではない。

科学はこれからも色々な事を解き明かして行くだろう。それはもう僕らの世界観を構成する大きな要素になっているし、これを否定して生きることも意味がないと思う。いつの日かこの大地がどこからやってきて、僕らがどこからやってきたのか知る時が来るだろう。僕らが生きて、老いて、死ぬのが明らかにプログラムされている所を見る時が来るだろう。生命が何ものか知り、精神も定義可能になる時が来るだろう。快楽が現象として発見され、音楽も美術も、美意識全てが分解されて解釈され、再構成して再現されるときが来るかも知れない。

それでも僕らは詩を美しいと思い、文学に感動し、毎日を楽しみながら生きて、死んで行く事が出来るだろうと僕は思っている。僕らは手品に必ずタネが有ると知っている筈だがそれでも楽しんでそれを見てるじゃないか。

まあいい。またいつか丸亀に星を見に行こう。僕が20年前に見た夜空がそこにはまだあるに違い無い。僕はそれを見て、美しいと思い、くらくらし、怖くなる事がきっと出来るだろう。

星よ、降れ。空よ、おちて来い。

'94.12 Yasu.


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