30年後の未来

僕らは30年後の未来を夢見る事が出来るだろうか。僕らは30年後の未来に耐えられるだろうか。

久しぶりに会った知人が「30年後の未来では」と口にしたのを聞いて、いやいや、そんな先の事は考えても意味がない、例えば30年後「電子マネーは必ず普及している。それがない未来は有り得ない」というだけの想像をしても意味がないと思った。
30年後に当たり前にするのではなく、一年でも早くそれを現実にするために今、また来年打てる手を考える事に意味がある。そう思った。

しかし知人と別れて一人になってから、では逆に「30年後の未来のために今するべき事があるとしたら、それは何だろう」と考えた。30年後に技術の細かな部分がどうなっているかを予測する事は非常に困難で、恐らく考えても分からないだろう。では技術の細部ではない部分で、世界を構成する要素として大切なものは何だろう。結局それは人間ではないかと思える。

ネットが星を覆い、情報がまばたきの間に脳ミソに流れ込んでくる未来に、はたして人間はその現実世界に耐えられるようになっているのだろうか。時間的、地理的障害が低くなった事で、外国人などの異文化との接触機会も増えるだろう。日本人的感覚、アメリカ人的行動傾向、そうしたものがあるとしたら(個人的にはあると思えるが)、それらは今より激しく摩擦を生むのではないだろうか。個人に迫ってくるのではないだろうか。
X Ratedなポルノ情報をインターネットがフラットに提供したために、あちこちの国や年齢層の人達に被害をもたらしている。本来非常な多様性があるポルノに対して、それぞれ違う部分に抵抗を感じる特定の地域や年齢層、宗教があるだろう。ポルノ以外でも人間の感覚に直接触れる部分についての脅威もある。死体を新聞に載せない国もあれば、死体写真雑誌が店先で売られている国もある。ポルノ雑誌に極めて近い出版物が、小学生が買う漫画雑誌と同じ店、同じ棚に並んでいる日本のような国もある。これらの文化的、感覚的摩擦に僕らは耐えられるだろうか。

少なくとも私が知っている、日本における古典的ネットワークユーザの振る舞いはそれなりにこうした新しい文化に対応していたように見えた。つまり許容度があったと思う。そこには情報科学・計算機科学系を中心に、もしくは理工学系の大学・研究機関を中心とした、極めて限られた範囲の人間たちだけでチューンしたルールがあった。alt.binaries ニュースグループが流れていても無視するなり取り込むなりして対処してきた。
出自も年齢幅も性別も極端に偏っていたなかでのチューンはしかし、その条件が変わったところでは役に立たない。誰でもがネットにつながるその世界では、あのようなルールは通用しないだろう。あれほどの許容度を期待できないだろう。

結局誰もが文化的差異、あるいは慣れの違いを起源とする不快感をともないながらネットをただよっているのではないだろうか。30年後、そうしたストレスを感じずに住める世界ができているだろうか。人間ができているだろうか。



Yutaka Yasuda

2000.02.01