1000歳になるという博士は「幻想館」なる見せ物小屋で巡業している。出し物はただの鏡だが、その中は自身の欲望の世界だ。そこを抜けて出てきた人たちは皆、精神の自由を得る。
これは想像の自由の勝利に自らの全てを賭けて、永遠に悪魔と闘い続ける男の物語である。聞こえは良いがしかしその姿はみすぼらしく、財産も地位もない。愛する娘以外に何もない。彼自身の影とも双子の片割れともとれる悪魔こそが、唯一の敵にして友である。
ところでギリアムの映画は迷宮である。現実と空想の区別をすることなく話は進む。観客はそれを謎としてとらえてはいけない。解き明かされることはない。そもそもそのための配慮が何もない。ギリアムはそんなことに頓着しない。観客に許されるのはただギリアムとともに彼の迷宮を歩くことだけだ。
パルナサスの心の中のシーンは多くの人に強烈な違和感で迎えられるだろう。なんだこのペラペラの絵は。なんだこのペラペラの話は。その前後にある暗くみじめな現実のシーンとのコントラストのためだとしてもなおペラペラすぎて悲しくなるこの絵は何だ。しかし観客はただパルナサスとともにそこを通り過ぎるしかない。パルナサス博士の迷宮はギリアムの迷宮でもある。着地点もわからず、行く先が見えない混沌をかきわけて進む。
ところでギリアムの映画には女神が出てくる。『バロン』では当時二十歳そこそこのユマ・サーマンだった。本作でもモデルのリリー・コールが現れる。悲惨とも言える汚い絵の中で、しかし彼女が出てくるだけでそこだけが輝く。それまで見るに値しなかった空間でも、彼女がその手足をただ投げ出しただけで見る価値が生まれる。ものすごいインパクトだ。これがなかったらこの作品は僕にとってはかなり見た甲斐の無いものになっていた。
僕がしばらく読んだ作家に宮本輝がある。(今どうかは知らないが少なくとも当時は)ストーリーテリングが抜群にうまく、彼自身そのために書いていると思えるところがあった。作品は読むものごとに正しく感情移入でき、然るべき場所に着地した。この点、『赤ひげ』までの黒澤明と同様だ。
僕がしかし好きになる映像作家は大抵再現性が低い。インパクトのあるもの、そうでないもの、彼らが作品を産み出すごとにそれはバラバラだ。そしてクローネンバーグも、ギリアムも、観客のことに頓着しない。恐らく誰だって最初、例えば学生時代に撮った映画や、書いた作品はそうだったはずだ。自分のために撮るし、自分のために書く。撮りたい絵を撮るし、書きたいように書く。あの頃のように自分の内なる衝動を外の世界と付き合わせることができないかと誰もが思うだろう。彼らは長いキャリアを持つ商業映像作家でありながら、今もそうした境界領域に住んでいる。
安定しない、その境界領域を彼らと一緒に歩く。それだけでいい。だから見る甲斐があってもなくても、まあ、いい。