老いた元フォードの組立工は、朝鮮戦争の帰還兵でもあった。彼は変わりゆく町を嘆いていた。アメリカの車は売れない。町の活気はなくなってしまった。アジア系の移民が増え、遂に隣にまで越してきた。一方で彼は家族からも疎まれていた。彼も息子や孫たちに我慢がならない。彼の頑なさはしかし、その嫌っていたはずの隣人たちによって次第に変化していく。
これは時代劇である。クリント・イーストウッドは西部劇出身だが、彼の作る作品は何と言うか時代劇的だ。西部劇と言っても彼がブレイクしたのはマカロニ・ウェスタン、『荒野の用心棒』か。そして『荒野の用心棒』は『用心棒』のリメイク(盗作)であり、クリント・イーストウッドはその黒澤明を尊敬しているという。なんだかぐるぐるして面白い。
前の職場でやはり映画が好きだという人と話した時、その人は「時代劇」を見るかと言う。僕は黒澤明ならと答えると彼はあれは時代劇ではない、西部劇だと教えてくれた。西部劇のエッセンスを持ち込んだものだという。本当の時代劇は義理と人情に挟まれた男が堪えて忍んで最後にその堪忍袋の緒が切れて斬り込みに行く、任侠だ、それが時代劇だと。
そして西部劇出身のクリント・イーストウッドが年老いて作り続けている映画の幾つかが、実にその意味で時代劇なのだ。本当にぐるぐるしている。
任侠映画で健さんは最後の最後に悪玉を斬り倒し、観客はそこにカタルシスを得る。ああ、世は正しく、あるべき姿に落ち着いたのであると。『チェンジリング』の最後で母親は犯人に向かって地獄へ堕ちろと引導を渡し、『トゥルー・クライム』では最後の最後に間一髪で冤罪が晴れる。
しかしその結末にはスッキリさっぱり、ハッピーエンディングとは行かないものが多い。さらわれた子供は遂に戻らなかった。若者は死刑を免れたが記者は家族から捨てられて独りになってしまった。『ミリオンダラー・ベイビー』で呼吸器を止めた主人公の愛情が社会的に認められないものである事を僕らは承知している。
しかしそれもまた時代劇だ。健さんも最後は手錠を掛けられて刑務所に行く。最後の決闘で命を落とす主人公も多かろう。理不尽な社会とは言え斬り込みだけでは押し通せないことも含めて観客は作品の中で着地点を得る。
本作で提示された着地点もまた悲しいものだ。主人公の余命が短いことがその悲しみをある程度和らげてくれるとは言え、これはむしろハリウッド的合理主義との適度な調和のために添えられた甘味料だ。物語の理不尽さと、スッキリ晴れることのないカタルシスを存分に味わいなさいと、イーストウッドは言っている。
本作、人種差別的な主人公が古くからの友人とひときわひどい人種差別発言大会を行うシーンがある。喧嘩ではない。楽しい友とのやりとりとして、である。そのあまりのひどさに笑ってしまったが、これは『ミリオンダラー・ベイビー』で主人公(イーストウッド)が旧友(モーガン・フリーマン)と交わすやりとりと同じである。まあひどい。楽しい演出である。殺伐とした本作の中で、殺伐とした言葉で展開される、暖かい時間だ。