少女は地下の迷宮でパーンと出会い、三つの試練を課される。凄惨なファンタジー。
物語はゲリラと内戦中のスペイン、その最前線を舞台に進んでいく。主人公の少女は、母親が再婚相手である軍人のもとへ呼ばれたためにこの地に来た。少人数の部隊ながらこの養父はその指揮官である。ただ彼は余りに冷酷で、残忍で、横暴だった。彼は無抵抗な人たちを、容赦なく、ためらいなく、そして何度でも撃つ。
そこでの毎日は厳しく、救いがない。少女はここで母親の出産と死に遭遇し、パーンが潜む迷宮へと入り込む。その間にもゲリラ戦は激化し、多くの血が流れ続けている。いつしか少女は幻想と現実が入り乱れた世界を生きるようになる。この地では現実だけを生きることが許されない。
恐るべきファンタジーだ。僕は予告編を見て、『ミラーマスク』のようなファンタジーを想像しながらこのビデオを借りた。『アメリ』も、『ロスト・チルドレン』もそうだが、ただ楽しいだけのファンタジーというのはほとんど存在しない。人がファンタジーに生きるのは、それなしでは生きていけない、立ち向かうことが出来ない困難さがあるからだ。
ファンタジーにとって暗い絶望の谷の存在は何だ。僕らの日常は余りに暗い淵を抱え込んでいるが、僕たちはそれを決して手放そうとしない。解決できない問題は捨ててしまえばいいのにそれを捨てることを選択しない。それが宿命だとして、ファンタジーとは僕らにとって何だ。何故僕はファンタジーを見ようとしてどうしようもない人間の暗部を見続けなければならないのか。不条理だ。おかしいではないか。
ファンタジーとは暗い絶望の谷を栄養に咲く花なのだ。血みどろになって倒れる兵士の黒い血を吸って美しく咲く花だ。解決できない問題を捨てることが出来ない僕らは、そこに倒れている死骸とそこから流れ出すドロドロとしたものを片目で見ることを条件に、もう一方の目でその花を見ることが許されるのだ。その花の根がそこにつながっているにも拘わらず、だ。ファンタジーとはもともとどす黒いもので汚れているのだ。
だから作中の映像はとても美しい。妖精になる昆虫も、眼球を手のひらにはめて歩き出す化け物も、ともにグロテスクでありかつ美しい。僕らの美意識は不条理なのだと思う。
救いがない。この映画には救いがない。作家は戦争を背景に、肉体の痛みや、痛めつけられることに対する恐怖を、それが観るものの中で最大限に拡大されるように克明に描く。そして幻想の国が密かに抱いて護っているであろう未来への希望を、その背景に極限まで薄めて描く。時にはパーンに声を荒げさせ、彼は今にもそんなものはどこにも無いと叫びそうだ。
希望の光が弱くなればなるほど、観ている僕は僅かな光を探し求めるようになる。もう途切れ途切れにしか見えてこない、次にまた現れるかどうか危ぶまれるその光を、僕はそれが極限に削られるまで、あるいはそれが無くなってしまうまで探し続けてしまう。もちろん、それが無くなった後でも捜してしまうのだ。不条理だ。この僕らに埋め込まれたプログラムのなんとおぞましいことか。