Cinema Review

パプリカ

監督:今 敏
作者:筒井 康隆
声:林原 めぐみ、江守 徹、古谷 徹

他人の夢をモニタリング、または介入することで精神疾患を治療するサイコセラピーのためのデバイスが盗まれてしまった。制限なく他人の夢に介入することはテロに等しい。悪用を止めなければ。

原作は筒井康隆の小説。もちろんそんな予備情報は何もなく、僕はただ今さんの作品だ、ということで見た。『Perfect Blue』で強烈な印象を僕は得たのだけれど、そのとき一つ浮かんだ疑問は「これは実写でも良かったのではないか」ということだった。映像制作手法に関する動機そのものに対する疑問だ。

が、本作では当時の僕の疑問は(さすがに年月が経ってるし!)みごとに解決されたことが確認できた。夢の中と現実世界が融合した状況、というものを大変にうまく表現していた。これは実写ではできない。できたとしてもそれは大変なCG合成大会となってしまって、結果的に本作よりも高い品質の映像作品に(同程度の予算で)なるとは余り想像できない。

基本的に一つの画面に大きな質的相違のある映像部品が同居していると、品質の低い方、または現実離れしている方のアラが一気に目立ち、以降はただそのアラばかりを見てしまうようになる。『ジュラシックパーク』なども一作ごとにまともになったが、最初はCGのおかしなところ、マペットのドンくささ、といったものが目立って仕方がなかった。普通の実写映画にCGのキャラクターを混ぜると、背景をCG合成している『STAR WARS』の episode I〜III でもまだかなりの違和感がある。動きの面での違和感もどうしても目につく。
このあたりのパーツごとの現実感のギャップ、映像品質上の差異を減らす構造的な工夫をした作品は多く、たとえば実写側の品質を下げたり(『スカイ・キャプテン』)、キャラクターも背景も全部3Dモデル制作してしまったり(一連のPIXAR作品)、アクションだけでなく顔筋ごとモーション・キャプチャで追跡して処理したり(『アップルシード』)、といったものが思い浮かぶ。

本作での現実的な描写(普通の建物やキャラクターの演技)と非現実的な描写(夢およびその境界的シーン)を連続的につなげるための映像化の選択肢としては、実写+CG加工か全編アニメーションか、そのどちらかの極端なパターンしか無いように思える。前者(『コンスタンティン』など多くのハリウッド作品)はコストが掛かりすぎるのが明らかだ。後者は現実と夢の両方の場面がともに非現実的な「絵の世界」に構築されて現実感が薄まってしまう。そこで本作が採る「非常に実写に近づけた雰囲気のアニメーション」は、その成果を見てしまうとそれ以外の選択肢は無いのではないかと思えるほど表現手段として効果的に働いている。もちろん今さんはこの方法をこの作品のために作ったわけではないので、(僕の主観では)それまで磨いてきた彼の手法にぴったりはまったストーリーと出会った、ということなのだろう。
もちろん僕は『Perfect Blue』しか見ていない。他にも多くの「はまる着地点」があるのかもしれない。この「非常に実写に近いアニメーション」という表現が、『Perfect Blue』からどのように進んだのか、他の作品についても興味が湧く。

ところで非現実的な映像の実写作品という意味では『シャイニング』などが思い浮かぶ。これは実写のみでCGエフェクトなどがない時代のもので、そこには特殊効果以上に映像効果(演出効果)があり、それが非常に効果的に働いている。CGやアニメーションというのはある意味、演出や効果なしにストレートにその絵を直接作ってしまうアプローチ、とも考えられる。演出を放棄していると言えなくもない。
この演出というのは受け手側にもその作法の理解とイマジネーションが必要なもので、ある種の文化なんじゃないの?と思う。たとえば歌舞伎の「見栄」や、そのとき入るタ、タン、という音は短時間でカットを繰り返すような演出と理解しているのだけれど、、、違ってたらごめんなさい。まあ大抵のものには様式がある、と言う話で、映画の演出だってそうしたものの一つだと思う。つまり技術上の限界やなんらかの制約のなかから無限の可能性を生み出そうとするものが演出や効果だとしたら、CG やアニメーションてのはある意味それをまっすぐ裏切るものかもしれない。つまり本作はファンタジーでありながら、観客に空想は必要ない。そのまま描き出されるからだ。それが良いのか悪いのか。はてさて。。。

Report: Yutaka Yasuda (2007.08.14)


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