Cinema Review

ヒストリー・オブ・バイオレンス

Also Known as:History of Violence

監督:デビッド・クローネンバーグ
出演:ヴィゴ・モーテンセンエド・ハリス、マリア・ベロ、ウィリアム・ハート
音楽:ハワード・ショウ

田舎町で平和に暮らす男。彼のダイナーに強盗が入る。彼は反射的に反撃し、一躍地元のヒーローとなった。が、その日から彼に暴力の影が近づいてくる。

名作、と言って良いように思う。クローネンバーグの映画としては久々に名作(一般的な評価が高いという意味)ではないだろうか。個人的にも今、僕はかなり良い感じで見終わった後の印象を楽しんでいる。数日経っているのに、こうした感覚を味わえるのはかなり気に入ったということだ。その一シーン、一シーンが思い出される。

まず最初のクレジットからぐっと来る。音楽ハワード・ショウをはじめとして、いつものクローネンバーグのスタッフがずらりと出てくる。衣装もやはりデニース・クローネンバーグだしね。

そしてオープニングのシーケンスもまた非常に良い。殆ど何も説明せず、静かなテンションを保ったまま、ザラッとした絵で物事はドライに進行する。いかにも悪役然としたオッサンと、それに弱みでも握られているのか、善良そうな青年の組み合わせ。さあ、これから物語がはじまるよ、という状況は最初の 2 秒で用意される。その上で青年には弱音を吐かせ、ドア脇の椅子をまっすぐに直して出る神経質さを演じさせておきながら、直後に震える少女を撃ち殺させる冷酷さはどうだ。

人々は(架空の)暴力に飢えている。オッサンがモーテルで「ひと仕事」終わったと言えば、そのシーンを見たくなる。だからその後に青年が現場に入らざるを得ない流れになると意味なくワクワクする。血みどろの死体二つは観客に振りかけられた満足と嫌悪の混濁液だ。どうだ、これが見たかったんだろう?こんなものが見たかったのかお前は?と恐るべき問いが突きつけられる。

そして答える暇もなく善良な青年による無抵抗な少女の射殺という恐るべきドロ玉が投げつけられる。言葉もなく、ためらいもなく、外してタマを損しないように、ゆっくり狙いを付けて、ただ静かに引き金を引く青年に納得する観客はほとんどいないだろう。悪漢は殺し、青年は見逃す、といった安心保証つきの話をクローネンバーグは用意しない。誰が誰を殺すかということに公式はない。暴力の結果は常に血の飛散であり、肉の粉砕である。観客の期待や希望にクローネンバーグは決して寄り添ったりしない。観客から孤立することを彼は恐れない。

そうしたクローネンバーグ然としたオープニングのあと、今度は 10 秒で物語の主人公とその家族をきっちりと説明してみせる。その手際の良さはどうだ。まだ幼い娘、優しい父親、優しい兄(この年齢の少年が年の離れた妹の夜泣きにやさしく対応するなど有り得ない。案の定、この長男はスポーツが苦手ないじめられっ子として描かれる。それを 1 秒で表現してしまうとは!)、美人の妻(『クラッシュ』のデボラ・アンガーに何となく似ている。クローネンバーグの好みなのか?)のしあわせな四人家族だ。オープニングのシーケンスとは正反対に、実に説明的で、幸福で安定したシーンだ。

しかし僕の心は安定しない。この一連のシーンで、僕は奇妙な感覚に包まれていた。なぜだろう。なぜこんなシーンを撮ったんだろうと思うのと、このシーケンスに落ちつかない自分をいぶかるのと、二重構造に分かれてしまった自分の不安定さを感じていたのではないか。それにしてもクローネンバーグがこんなシーンを撮るなんて思っても見なかった。

この悪漢が主人公のダイナーにやってきて事態は一変する。それ以降は多く他のレビューなどで語られているだろうからここでは省く。常にストーリーの背景に潜む暴力と、それを引きがねとして吐き出される人物の内蔵のおぞましさにただただ戦慄するのみだ。

そう、この作品では善良なはずの人物たちから吐き出されるおぞましきバイオレンスが丁寧な映像と周到な配置で描かれる。そこで吐き出されているのは彼らの内蔵だ。彼らの内にある、彼らの一部を成す、しかしドロドロとおぞましき形態をした内蔵だ。クローネンバーグはそのグロテスクな映像を軸に語られることが多いが、彼が描きたいのはグロテスクな何かではなく、そうした形で露出させられる人物たちの内なるものだ。彼の描写が内蔵的と評されるのは間違っていない。彼は内なるものを内なる姿のまま外に露出させているからだ。『クラッシュ』で執拗に描かれる深い傷とその縫合跡は人物の内部への入り口なのだ。

気弱で卑屈な長男がキレて反撃に出る時、彼は一人の急所を蹴り上げ、もう一人の鼻を折り、倒れて無抵抗な腹を蹴り飛ばす。血を流し、痙攣する二人の被害者を前にしてなお、抑圧された長男の反撃にカタルシスを感じる観客は少なかろう。
夫の過去を知り一度はかばってみたもののやはり拒絶する妻と、それをつかまえようとする夫というありがちなシーンは、しかし次の瞬間にあろうことか暴力的なセックスとなって観客の目に突き出される。
父親を救うため、ギャングをショットガンで撃ち殺した長男を抱きしめる主人公の顔は、しかし粘度の高い血と肉片にまみれている。その抱擁に許しを感じる観客はやはり少なかろう。その血で書かれた「お前は人殺しだ」という主張から目をそむけることが出来ないからだ。

暴力をカギに人物からドロドロと「何か」が流れ出ているのが見えるだろうか。観客の感情移入をしりぞけ、説明を拒む、あれらはすべてクローネンバーグの内臓なのだ。常に内臓的と評されるクローネンバーグのあのグロテスクな「何か」は、この作品でもやはり執拗に描かれていた。堂々と描かれていた。

Report: Yutaka Yasuda (2006.04.29)


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