最終の地下鉄を待つ間に居眠りしてしまった女は、そのまま駅に閉じこめられてしまう。
DVD で見た。実は衝動的に『ドミノ』のキーラが見たくなって借りに行った結果、これを選んでしまった。『ドミノ』はさすがに新作で全部借り出されており、ではと『ダニー・ザ・ドッグ』を借り、ついでにもう一本と選んだのが本作。予告編を劇場かどこかで見たはずで、その映像の雰囲気を憶えていた。
で、こぢんまりしたサスペンスと思っていたのだが、残念。完全なホラー、それもショック・ムービー的ホラーだった。僕はこれを布団の中で PowerBook で再生して見たのだが、うーん、劇場で見たら困っただろうなあ。。ショックは受けたろうが、あまり良い感じじゃないぞこれは。
ここのところハリウッドは日本のホラーを研究していると言われる。もちろん『テキサス・チェーンソー』がハリウッド・ホラーの全てだとは言わないが、そういった流れ以外のものがある程度増えているように思える。まあ僕はホラーを見ないのでよく分からないのだが。
ところがなぜかハリウッドのホラーは人間が恐怖の対象になっている。これは欧米人全体に共通の感覚なのか、亡霊といったものに抱く畏れというものが根本的に日本人と異なるのではないかと思える。例えば『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』がそうだったが、結局の所は人間が怖いのだ。『リング』では呪いのビデオそのものにパワーがあり、亡霊はそう大したパワーを感じさせない。逆にそれがあるため最後にテレビから亡霊が抜け出してくるシーンに強烈なインパクトがあった。
ところがハリウッド映画では最終的に人間が出てくるので実に怖くないのだ。つまりこの作品も途中から怖くなくなる。前半、まあまあ良い感じで話は進む。どきどきどきどき。結構怖い。が、途中で奴が登場してふうっと僕は安心した。ああ良かった。何しろ正体の明らかなモノ(とりあえず姿形をもっているではないか)が出てくるのだから、僕は精神的よりどころ(ここを起点に怖がって下さい)を見つけて安心できるというわけ。足場が無いことそのものが精神的不安定さを増幅する装置なんだろうなあ。黒沢清は人間の心の奥底にある不定型な闇を掘り起こしている。
本作はその意味で非常なハリウッド的ホラーで、面白くない。良い材料だと思うのだが、舞台装置と恐怖の構造が乖離してる。
結論。ホラーには「チラリズム」が必要だ。「見えそで見えない」のが良いんだってば。