ガイナックス渾身の一撃、だと思う。そこに描かれた別世界像は、今見ても色あせていない。彼らのイマジネーションの、その飛距離の大きさに拍手あるのみだ。
初見は劇場公開当時、僕は高校生か大学生だったのではないか。学生じぶんにアニメーションを見たり作ったりしていた連中と一緒に見た覚えがある。見た当時も衝撃を受けるほど感じるものがあった。ゼネプロ、DAICONといった流れを隅の方でちょこっと眺めていた身にも、彼らが恐るべき高みにまで届いたことが認識できた。
未来映画は別世界映画だと僕はずっと思い続けている。「これはちょっと先のことだ」と感じる、その感覚(テイスト)を未来感と言うのだとしたら、それは「これはちょっとだけ別の世界のことだ」と感じる別世界感と同義だ、と思う。だから別世界感の感じられない未来映画は数年経つと過去の映画になってしまう。または未来を読み損ねたドン臭い映画になる。ギリアムの映画が好きなのはそのあたりにある。本作のこの徹底した別世界構築の厚みは何だ。圧倒される。
当時のことを思い出しながら少しじっくり書いても良いのだが、実は他に書きたいことがあるので今日はそっちを書く。なぜ今頃になってオネアミスのレビューを書いているかというと、先日DVDを借りてもう一度見たからだ。しかも今回、実はまともに見ていない。『プラネテス』(但しマンガ)を読み、シロツグの最後の宇宙からの放送をもう一度聞きたくなっただけなのだから。だから途中は飛ばして見ていたりする。時間があればじっくり集中して見直したいのだが。今回はちょっとできなかった。まあまたの機会にとっておこう。
この映画は人間の欲と業として、戦争と宇宙が描かれる。その欲のカタマリである宇宙船から、シロツグが万人の前で神の許しと恵みを祈るシーンでこの映画は終わる。『プラネテス』でも宇宙開発は「完全な愛を渇望する人間に与えられた罰であり罪そのものだ」と表現されながら、最後にハチマキは「愛することだけがやめられないんだ」と話す。
その類似に、僕はこの映画を見直したくなったわけなのだ。
しかし早送りしていたなかで、一点、まるでオマージュともとれる類似を見つけてしまった。シロツグが打ち上げ前に少女の家を尋ねたが不在で、電車に入れ替わりに乗るところで遭遇するシーン。伝えるべき事が多くあるなかで時間が無く、ただ「いってきます」という言葉だけが交わされる。
『プラネテス』でも、偶然にステーションで入れ替わりにハチマキと愛たちが電車に乗るとき、同じようにハチマキは「いってきます」と言い、自分にも帰るべき場所があったことを告白する。
おお、同じだ。
もう十五年も前のこと。そんなセリフがあったなんて忘れていたよ。