ある日つきあい始めたばかりの彼女が最終兵器にされてしまった。それでも僕たちは恋していくと決めた。
『ほしのこえ』とほとんど同じようなシチュエーションの SF、かもしれない。が、読んでいるあいだ僕が感じた閉塞感、圧迫感、悲しさといったものはそういったジャンル分けされるようなことではなく、もっと一般的な感情の裏側だったように思う。おそらくは喪失感によるものではないか。
僕は余り漫画を読まない。特にここ最近は読んでいない。この漫画もどこかに連載されていたせいで少しずつ断片的に読んだ記憶があるが、連載の一回一回は余りに内容が断片的なものだから、なんのことやら判らず無視していた。記憶にほとんど何も残っていない。余りにも現実離れした描写からある程度以上の拒否感をもっていたことも間違いない。弱々しい女の子とメカという組み合わせに類型的な臭いを感じたこともある。
が、ちょっとした経緯で読もう、と思い立った。近所にできたBOOK OFFに飛び込んで 7 冊まるごと買って一気に読んだ。辛かった。しばらくは読み返したくない。『バガボンド』や『ブラックジャックによろしく』などは延々と繰り返して読んだし、僕はそうすることが多い方だと思うのだが、この作品は読み返すのが辛すぎる。繰り返して追体験するには苦しすぎる。読み手は作品を読解するのではない。作品の中を登場人物と共に生きるのだという。作家もまた作品を書くのではない。作品世界に人物を解き放ち、ともに作品の中を生きるのだという。安部公房も『死に急ぐ鯨たち』だったかで「批評家たちも何か言いたいことがあるなら第三者的にならず作品の中を生き抜いてみろ」みたいなことを言っていたような覚えがある。
この作品は読み返すのが辛すぎる。追体験するには苦しすぎた。
『リバーランズ・スルーイット』でも同様の喪失感が描かれた。自分のすべてを込めてこの手を相手に差し出しても、それが届かない時がある。どれほどの想いをかけてもそのひとを引き止められない。ブラッド・ピットが演じた才能ある美しい弟は、賭博やタブーに体当たりを続け、自らそこに墜落した。この弟を愛した父も、母も、兄も、それを止められなかった。『戦慄の絆』ではビバリーとエリオットが共に手を取って落下していく。ひとりが堕ちていくのを止めることが出来ないと判った時、もうひとりは共に墜落することを選んでしまう。「次は**を試してみよう」と話しかける姿のなんと哀しいことか。
そうした喪失感、墜落感は僕の心に何故か強く響く。
作品中、読者はまるでテストベッドに載せられた被験者のような扱いを受ける。彼女が少しずつ手の届かないところに離れていく。離れていったかと思うと、明日にはまた元に戻っている。戻ると言ってもそれは続くわけではなく、彼らの未来は極めて暗い。絶望的で決定的な「その日」に一日一日近づいているのが明らかなのだ。救いはどこにもない。ただ自分たちの手に残された小さな幸福感を大切に見つめることだけが自分たちに残されている。それだけが許されている。『世界の中心で愛を叫ぶ』と何も変わらない。読者はこの強烈な墜落感と、小さな幸せにしがみつく一瞬を、繰り返し繰り返し与えられる。まるでテストベッドで反応試験されているようだ。
そのテストでは、問題設定が最終兵器でも白血病でも変わらない結果が出る。大切な人がガンで追いつめられていくのも、肉体ではなく精神の安定を保てなくなって墜落していくのも、それを何とかしたいと思う立場からは何の違いもない。手を伸ばしてすくい取れるものは同じ喪失感、墜落感だけだ。これと戦うのは辛い。だからこの作品は読み返すには辛すぎる。
もちろん現実に、いまこの瞬間だって僕らは、全体的、社会的に極めて大きな矛盾を抱えた悲観的な未来をどうすることもできないまま、極めて部分的で個人的な幸せを糧に日々を過ごしている。まるで救いがない。そんなことは分かっている。だがそれでも多くの場合、僕らは精神のバランスを崩さず生きていける。つまり僕らは矛盾に満ちた精神構造をもった生き物なのだ。盲目で、悲しい、幸せな事実だと思う。