少佐がネットと融合しその姿を消して四年。バトーは少佐の影を感じながら日々の事件を追い歩く。
物語の構造や込められた寓意のようなものについては押井さんのファンがたくさん書いていると思うのでここではやめておく。いわゆる押井ファンではない僕にはよく分からない部分もある。
見た目の映像はしかし大変なものだった。背景に作り込まれた CG ベースの 3D と、手描き 2D の人間のキャラクターが(僕の主観では)衝突している。冒頭、バトーが暗い廊下を進むシーン。溢れる情報量を背景に埋め、そこを視点移動することの気持ち悪さといったらない。インドアでの索敵自体がこんな感じなのかもしれないが。
現在でもまだこの両者を融合させることは困難なことなのだろうか。。。既存のアニメーション観客層への提示としてはこのくらいアニメーションっぽくあった方が良かったのかもしれないが、普段アニメーションを見ない僕にはよく分からない。ただこの映画が、ずっとアニメーションを見ている人たちに焦点を決めて作られていることだを感じるだけだ。作家は自分の思考を、それが相手にとって許されるぎりぎりの限度に合わせて表現していると思えるからだ。作り手だけでなく、見る側も自己と映画作家をつなぐ言語としての映画表現の限界に挑戦し続けているのではないかと思う。これは共同正犯だ。両者が劇場の中で共同してつくりあげる理解の構図(虚構の空間)こそがこの作品の姿である。それが映画の本質だと言っても良いが、それにしても遠い飛距離を観客に要求する作品だ。
全編を通じて球体関節人形が出てくるが、オープニング・ロールではその構造的な部分がより強調されたフル 3D CG で描かれていた。その原型となったであろうハンス・ベルメールの写真から受けるイメージほど暴力的ではない味付けだが、バラバラにされた人間の曲線と、そこにあるはずのない球体の関節の組み合わせがひどく違和感をかきたてる。潜んでいるのは暴力か、猟奇趣味か。
オープニングのクレジットで、プロダクション・デザインとして種田陽平の名前が挙がっていた。『DUNE』『ブレード・ランナー』『ロスト・チルドレン』『GATTACA』『The Cell』など、僕はこうした背景部分に引っ張られる。映画は Media Mix だ。そこに関わる作り手たちもまたジャンルを超えて Mix されていく。おもしろいうつわだと繰り返し思う。じきに『キャシャーン』が公開される。予告映像を見たが、これもまた凄まじい作家の想念が込められていそうだ。また近いうちに『ケイナ』も公開される。