妄想と現実を記憶のなかで混濁させて生き続けてきた男の孤独を描く。
なぜこんなに 30 代女性がひとりで見に来るのだろう?何かそういうメディアで流れたのだろうか?ひょっとして女性 1000 円の日か?もっと若い女性もいる。斜め後ろでパンを食べながら喋ってるお嬢さんがたは、なんだか少年の雰囲気が云々と言っている。たぶん予告編かなにかを見て良く分からないまま来たんじゃないだろうか。
さて何か違うと気が付くのに果たして何分かかるだろう。うしししし。
僕はと言えば、いつものように何の事前情報もなく見に来た。ただクローネンバーグ映画だから見に来た。理屈はない。クローネンバーグの映画は見なくてはならないのだ。それが僕に課せられた義務なのだ。『クラッシュ』で「おお」と感動し、『eXistenz』で「ううう」とメゲても、次作を見ないわけにはいかない。そんな程度の当たり外れ、『デッド・ゾーン』、『ビデオドローム』『フライ』『戦慄の絆』と延々味わってきた。今更何がおきても構わないのである。
だからこの作品のプロットも、テーマも、シーンのかけらも、僕は何も知らない。そしてそのまま見る。そういう何年ぶりかのクローネンバーグとの再会である。
実はここまでを僕は上映前の劇場で書いている。さて、どうなることやら。
………
見た。ううーん。寝そうだった。これほど寝そうになったクローネンバーグ作品は初めてだ。『M. バタフライ』もすごかったが、これはまたすごかった。かなり辛い。その場にいることがかなり辛い。
観客は客席にくくり付けられ、この時間を作家と共有することを強制される。辛い、奇妙な温度感の、クローネンバーグとの再会だった。
主人公の心の孤独、周囲の愛情、憎悪、すべての感情のどこにも真実はない。作品の中で見せられるすべてのことについて、それが真実なのか、幻想なのか、誰にも分からない。何も説明されない。僕らの住む世界に確かめられる真実などなにもないとクローネンバーグは言っているようだ。
違う、おそらくクローネンバーグはそうした不確かな世界に暮らしていることを意識しながら、ただそれをフィルムに焼いただけなのだろう。説明したいわけでも、見せつけたいわけでもなく、ただ見たままをあるがままとして撮っただけなのだろう。
違う違う、クローネンバーグは計算された作品を撮る。観客の状況や、視点を意図的にコントロールしているはずだ。そして観客にそう思われることも、そう思われないことも意に介していないようだ。
違う違う違う、、