Cinema Review

マイノリティ・リポート

監督:スティーブン・スピルバーグ
作者:フィリップ・K・ディック
出演:トム・クルーズ、コリン・ファレル、サマンサ・モートン

予知夢を見る特殊な能力をもった人間を使って重大な犯罪を予め防止するシステムが完成した。それ以来、重犯罪被害者はゼロとなった。

フィリップ・K・ディック原作の SF ということで見に行った。もうそれだけ。それ以外の目当てはなかったのだが、実際それ以上の収穫もなかったという感じ。もちろん僕は映画を損得では選んでないし見てないんだけど、それにしても普通の一本だった。
すらすらと話が進み、すらすらと謎が解かれて、すらすらと終る、という感じ。ううーむ困ったぞ。

コンピュータを操作するためのユーザインタフェイスがグラフィカルだが 3D になっていた。このことについては恐らく多くの映画評論記事で取り上げられてるような気がするのだが、まあコンピュータ屋さんからのコメントがあってもいいかな?

GUI と現在呼ばれているものは一般に 2D である。Alto が切り開き、Lisa や Star でいろいろ試され、現在のデスクトップメタファー はその後の Macintosh がほぼ確立したように思う。これらは二次元表示の画面上を、マウスという二次元平面を移動するポインティングデバイスで操作する。画面上のオブジェクトは、たいてい実用的なサイズより画面のサイズの方が小さい(狭い)ので、ウィンドウという「覗き窓」を使ってその一部を見る。

本作の GUI は 3D である。これは以前『JM』でも描かれたもので、『攻殻機動隊』でも電脳世界にダイブするシーンが登場する。知人が何年か前にそうしたユーザインタフェイスを称して「盆踊りのよう」「そのうち手の返しに流派が生まれて、彼は小笠原流」などというコメントを書いていた。まったく同意する。面白そうな未来像だ。
ヨタ話としてはともかく、現実には僕らはまだ三次元をうまく扱うためのユーザインタフェイスを確立できないでいる。この作品ではある程度うまく操作できているように描かれるが、保証しても良い。これでは1時間と使っていられない。疲れる。

音声入力について、キーボードアレルギーな人達にコンピュータ操作をうまくさせる画期的な方法だと考える人がいるようだが、少なくとも現在のキータイピングによる入力操作の代替には決してなり得ないことだけは明らかだ。最大の問題は体力問題である。一日8時間タイプし続けても翌日指が筋肉痛になったりはしないが、一日8時間話し続けたら大抵の人は翌日ノドが枯れる。
人間の操作を非常にうまく補助してくれるユーザインタフェイスが開発されるなりして、操作、つまりコンピュータとのインタラクションの量が桁ひとつ少なくなるなど、よほど重大な質的変化がないと音声入力がインタラクションの主役になることはあり得ない。操作を助けるだけでは足りず、恐らく思考を助けるようなものになるだろう。

(その意味で重役秘書と雇い主との対話量はどのくらいのものなのだろう。すごく気になる。)

この作品で示されたトム・クルーズ流のボディ・アクションによる操作は余りに体力を使いそうで、とてもではないが日常的には使えない。トム君並みに体を鍛えないと駄目っぽいが、しかし腱鞘炎ならぬ四十肩を誘発しそうだ。それからきれい好きなトム君には問題なさそうだが、操作するオブジェクトが僕の机の上ほどに増えて、また整理されないようになればたぶん破綻する。

未来のユーザインタフェイスはもっと複合的なものになると僕は思っている。ボディ・アクションでも、音声でも、キータイプでも、マウスでも、多様な方法で操作指示ができるようになるべきだと思う。でないと駄目だ。
下手な外国語で会話をしてなんとか意志疎通をはかろうとしているときのことを想像してみると良い。台湾の友達と話をするとき、彼女とは主に英語、ときどき日本語の断片(カワイイ、カッコワルイ程度)、もちろん身振り、そして漢字による筆談を取り混ぜながら話をする。できの悪いコンピュータとの対話は恐らく犬に芸を仕込むようなものになるに違いない。

こういった映画はきちんと未来を描くべきだと僕は思ってる。もっと的確か、もっと別世界的か、どっちかでなくちゃ。原作者の世界観、距離感が出ているのはいいことだが、細部に関してそうなっていないのが残念だ。クリエイターの思考が爪先、指先まで行き届いた映像世界というのはなかなか実現困難なように思える。

Report: Yutaka Yasuda (2003.01.28)


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