この作品に関しては、スピルバーグ監督作品というよりも、キューブリックの遺作と考えたほうが良い。作品が全体的にスピルバーグらしくないからだ。だからこそ、スピルバーグの作品のファンである観客には物足りなさが感じられたのであろう。しかしだからといって、これが失敗作であるとは言い難いものがある。何故なら仮にキューブリックが製作していたとしても、同じような結果、あるいはそれ以下に終わっていたであろうと考えられるからだ。というのも、キューブリックの作風自身、大衆受けを狙ったものではないのである。キューブリックの持つ、閉塞的で焦燥感を漂わせる冷やかな描写に対し、そこに幾許かのエッセンスをスピルバーグが注入したに過ぎないからだ。したがって、一映画として観れば何の抵抗も無く観れるものだと言える。
91年に製作を開始するも、技術の未発達で断念してしまったキューブリックの意志が強く反映されている。ロボットなどの精巧な描写と近未来的景観のクォリティは、今の技術でここまで実現出来るということを見せつけられたように思う。ハーレイのメカ的な演技と、ジュード・ロウの巧みな動きも見事である。これほどまでに時と人知を超越したSFは見たことが無い。そこにロボットであるということの悲哀と、人間になって母に愛されたいというヒューマニズムを上手く取り込んでいる。だが、やはりキューブリックの冷厳な視点が入り込んだのか、多少暴力的で、暗い作品となってしまっている。その不釣合いな点を除けば、興行成績こそ振るわなかったものの、SF映画の行く末に一石を投じた重要な映画にはなったのではないか。
意外だったのは後半に宇宙人という想像の産物を登場させたことだ。『2001年宇宙の旅』などの一連のキューブリック作品は何らかの科学的根拠や現実に基づいて、そこから虚構を創っていっている。だがA.I.に登場した宇宙人はどうもベタで所謂空想的なフォルムであった。モノリスのような抽象的な存在であるならまだしも、こういう世間一般のお決まりの宇宙人をもってきたというのが、どうもキューブリックらしくなかった。おそらくこれはスピルバーグの意向なのであろう。やはりどこかに自分らしさを出したかったのではないか。しかしならばいっそのことブルーフェアリーも本物を登場させて欲しかった。そのほうが後半からファンタジーっぽくもなり、それこそスピルバーグらしい明るい映画にもなったであろうと思うのだが。
もしも、キューブリックが生きていて、プロデューサーとして参加していたならば、また別のA.I.が生まれていたかもしれない。しかし、それがこのA.I.を超えられたか、と問われれば、それこそ人間でも人工知能でもない、神のみぞ知るところである。どっちみち、1999年7月以後、終末論を描いてもヒットは望めないであろう。