外とは戦争、内では謀略の絶えないある国で、名将とうたわれた男がたどる悲劇。古典か?SFか?極めて特異でセンセーショナルな映像。
原典はやはりシェイクスピアだった。『タイタス・アンドロニカス』だそうだ。ディカプリオ版『ロミオとジュリエット』とはしかし一線を画したアレンジが加えられた、これは古典ではなく SF と受け止めるべき舞台背景をもつ作品。『DUNE』を思い浮かべれば古典とSFが実は同じ時空的距離感を持った舞台装置だという事がわかって貰えるだろうか。
なにより鮮烈な映像と、それに極めてよくマッチする残酷なシーンのコントラストが良い。ある時代、捕虜の内臓を取り出して生贄に捧げることは、理不尽なバイオレンスではなく合理的で美しさすら含んだ真実だったはずだ。その背景では凄惨なシーンに美しさが宿る。『白雪姫』の原典では、お后が焼けた鉄の靴を履かされ死ぬまで踊らされた。『シンデレラ』の姉たちは目をえぐりとられて血の涙を流す。これはバイオレンスか、それとも異なる次元の美しさの表現か。
舌を抜かれ、手を枝に変えられた娘が池をさまようシーンの凄惨さは、その意味でも、または単なる絵としても美しい。そう感じる。
しかし、僕は漫画の『殺し屋1(イチ)』で描かれたような狂気と暴力の中に何も美学を感じられない。せいぜい作家は僕とは違って何かをそこに感じており、その「底」を見たいのだろうという事が分かる程度で、僕にはそこにあるかも知れない何かを考え続ける事ができなかった。忌避したのだと思う。
感情について何かを理解するという事は自分の中でそれを再発見するという事と同義だと僕は思っている。僕には僕の中にある狂気や暴力を見つめる勇気が無かったのだ。
それでもこの作品の映像にひかれるのはなぜだろう。
生や、それと直結している幸福に執着するのと同様に、死や、それと直結している暴力や恐怖に僕の感情はどう縛りつけられているのだろう。性や、死や、快楽や、恐怖を、僕は自分の心にどれだけ飼うべきなのだろうか。