田舎町のバス運転手だった男は、ある日バスジャックに遭う。乗客も何人か射殺され、犯人も射殺された。生き残ったのはその男と小さな兄妹だけだった。
三時間を越える、しかし大作ではない小品だ。僅か数人の登場人物の心の中を遊泳する、しかし密ではない三時間だ。静かな緊張は解ける事なく、最後まで見ているものに付きまとう。
自分が生きている事と死んでいる事の違いは、当人にとってどれほどのものなのだろう。誰かが生きている事と死んでいる事の違いは、周りの人間達にとってどれほどのことなのだろう。生と死の境界線をコンマ 5mm のところで分割された三人にとって、自分達は「残され組」なのだろうか。
悲しいという感覚はなんだろう。僕は今までにそれほど親しい人をなくしたことがない。幸せな事だ。それでも祖父や伯母も含めて親類は何人も死んだ。小学校からの友達は大学に入った頃に事故で突然に死んだ。大学時代に同じクラブだった奴は仕事をはじめて何年かして自殺した。数カ月前、知人が病死した。家族や妻ではないにせよ、誰かがこの世からいなくなったと聞かされた時のあの気持ちは実に嫌だ。
『幻の光』でも残されたものの悲しみが全体の空気を支配していた。彼らが抱える虚無は、何で埋められるのだろう。この作品の少年は虚無の中に、瞬間に爆発するもう一つの闇を飼ってしまった。
僕の周囲の人達の死はいずれも、僕の心に巨大な虚無を作ることはなかった。それでもこのごろは誰かの死に触れるのが恐くて、しばらく会ってない人の消息を尋ねたくないと思う時が時々ある。悲しいという感覚はどんなものだろう。知りたくはない。大切なものを失いたいとは思わない。しかし自分が不感症なのではないかと思うときもあるし、そうではないと教えて欲しいときもある。
もう嫌だ。誰かが死ぬのはもう勘弁してくれ。だがこれから先、自分の命が幸運にも他の誰かより長く続く限り、僕はあの嫌な気持ちを繰り返して噛みしめることになる。自分の運が良ければ、僕はあと何十、何百回となくあのめに遭うのだ。いつかは大切な人もいなくなる。それは幸せな事だ。それが自分にとっての幸せなのだ。悲しくて幸せなのだ。
何と言う矛盾。