ある夏の日、千尋は引越しのために育った町を離れて田舎の町にやってきた。その途中で千尋は不思議な世界に迷い込む。
素晴らしき宮崎駿の世界にたっぷりと浸かれる幸せな作品の一つだ。東映動画の直系である宮崎駿が、丹念に絵を描くことがどれだけその表現を豊かなものにするか、描き込むことでどれだけ世界をリアルにできるかを見事に示した作品でもある。
ちなみに最初と最後の現実世界の描写はとても優しく、線も細い。対して門の内部の世界は満艦飾の細工とどぎつい色彩の世界だ。描き込まれる線も多く、盛り込まれた情報量は半端ではない。アニメーションは省略の世界でもある(どうせ実写に匹敵する情報量の描写はできない)のだが、逆にこの作品では溢れ出んばかりの情報を押しつけてくる。
そして数えたわけではないが、場面数がまたとても多い。宮崎駿の展開の速さは毎度実に忙しいもので、まるで作家のせっかちさを反映しているようだ。この作品でもそれは活かされており、まあ考える暇もなく場面が自由自在に展開する。絵コンテの枚数、多そうだなあ。。
それぞれの場面は彼一流の空間設計がしっかりなされており、どの画面でも全体の中での位置関係がそれぞれはっきりわかるように表現されている。(このあたりは『カリオストロの城』なども同じ。)これらのシーンの緻密な連続性によって、それら数多くの場面は切れ切れにはならず、見ているものの頭の中に積層されていく。そのせいか、僕にしては極めて珍しく、その場面の列を頭から最後まで連続して再生できる。頭にその絵が次々と浮かんでくる。
その話の流れ以外にも極めて細かく周辺のものが描写される。石炭を運ぶススワタリ、彼らはどこから来て、何故手伝っているのか?腐臭を放ち汚泥とともに湯屋にくるオクサレ様は、いつも水神なのか?何故か千尋に親切にするカオナシは結局どうして欲しかったのだろう。
それぞれの場面で、ともすれば重要な役割を果たしているのに、それらについての説明は何もない。分からないものを分からないまま受け入れろと言うのだ。それらのことが見ているものの想像を一つ一つ膨らませ、物語に奥行きを与える。(恐らくどこかファンブックなり解説本などで事前または事後に多く説明される傾向がアニメーション映画の周辺では多いから、これもそうなるのかもしれないが。)
宮崎駿は『風の谷のナウシカ』(映画)では、原作の持つ果てしない奥深さをカットし、映画として独立した境界線を引いて、その閉じた中での説明を一通り片付けてみせた。確かにそうしなければ説明不十分になっただろう。しかし本作ではまるで日本古来の説話のように、分からないものを分からないままにして浮かび上がらせる。
千尋はオクサレ様を拒まず、カオナシまでを受け入れて、最後まで共に歩こうとする。彼らは否定するべき対象ではなく、受け入れるべきものなのか。作品は少女に感情移入しやすいように作られている。その少女が、これら「いやなもの」をあっさりと自分の中に受け入れる瞬間、自分の気持ちも何かすっと楽になる。
その一瞬が不思議な感触なのだ。