子供を失った夫婦のもとに、まるで子供そっくりのロボットがやってくる。しかしロボットは永遠に歳をとらない。死ぬ事も無い。
何故見たかと問われれば、「そこにジュード・ロウがいたから」と答えるしかない。素直にジュード・ロウを見るために行ってきた。いつも遅めに見る僕には珍しく、先行ロードショーだった。予告フィルムや雑誌の情報などで今回彼は相当奇妙なセックス・ロボットとして登場する事が分かっており、見る前のテンションはかなり低かった。果たして予想通り、ジュード・ロウは実に軽薄なニイちゃんだった。まあ仕方ない。そしてまた似合っていた。『リプリー』のディッキー役のように、彼にはそういう役が合う。
どうやらヒットしているらしいが、映画そのものは僕にはいまひとつだった。つくりとしてはまったく寓話そのもので、物語も映像も、未来的でも何でもない。強いて言うなら「普通のもの」だ。長い作品だがそう感じさせないのは完成度も含めて作り手のうまさなのだろうが、しかし光るものがない。
『まんが日本昔話』も淡々と過ぎる、光るものが感じられない番組だと思うが、この『A.I.』はそれに近い。無論一般的評価が低いだろうと言うような話をしているわけではない。つまり僕は残念ながらそうしたものを望む観客ではないのだ。残念だ。
ところで、最後に人間を復元して一日だけ会えるという恐るべきイメージは、一体何のためなのだろう。長い伝承の時間を経て鍛えられた神話や寓話は、時として金属の刃が肉体に差し込まれていくような、生理に訴える種類の冷たさや痛みを感じさせる時がある。シンデレラの元話では意地悪な姉は火あぶりよりも酷い罰を受ける。
この現代のお話はそうした冷たさをもたない。そして生への喜びもまた感じさせない。確かに絵として血が流れるものはないが、そこに血が通っている気もしないのだ。人間になりたかったロボットは、決して人間の意味を理解しなかった。セックス・ロボットが「女のことなら何でも知っている」と言うように、彼らは何も知りはしない。「人間になりたい」と念じたロボットも人間の生と死を理解せず、人間を一日再生して自身のメモリに愛された一日を閉じ込める。彼らはそれをリピートして幸福になるのだろう。
残念ながら僕は子供を育てた事がないので、果たして愛して欲しいと望む相手がいることがどれだけ自分にとって重要なのか、いまひとつ分からないでいる。それが分かった時にまた見てみるといいのかもしれない。そういう意味では今の僕はまるでロボットのようだ。許してくれ。