奴隷的労働に消費される人造人間の悲しみを描いた、不滅のSF。
今では暗い未来像は普通かもしれないが、当時としては珍しい。僕の記憶ではここまでリアルな提示は本作が初めてだったと思う。シド・ミードとリドリー・スコットによる、不滅の金字塔だ。
21世紀になった。僕が小さかった1970年代には、もっと明るい未来像が子供たちに示されていた。元旦の朝日新聞には何度も21世紀の想像図が描かれた。乗用車は空を飛び、ロボットは人間の友達になっていた。『ブレードランナー』にも空飛ぶ自動車と人造人間はいる。しかし空は暗く、雨が降り続いている。そして人造人間は友ではなくドレイであり、彼らの知性はまず人間を憎む事からはじまった。
何故だ。僕らが子供の頃に信じた明るい未来はどこへ消えたのだろう。
僕らの世代は、その前の世代が作り出した経済成長からくる楽観と、学歴社会などという硬直した未来予想のもとで育った。しかしそれらは決して現実のものにはならず、それが僕らに課していた努力目標もまた幻想となった。大学を出る頃のバブル景気では学歴は無意味だったし、その後では大会社だって倒産する。今では僕らも現実の世界がそんなに単純じゃないことを知っている。
21世紀になった。原子力はクリーンエネルギーと言われたが、原子炉を抱いた船は停泊所を求めてさまよい、高速増殖路は非難を浴びている。もう枯渇しているはずのガソリンはまだなくならない。その間伸び続けた消費のツケは汚染に化けてはね返り、明日はないと告げている。僕らの抱えている矛盾は大きい。
前世紀は戦争と重化学工業の100年だった。次の100年が生命科学の世紀になることは明らかだ。『ガタカ』や士郎正宗の一連の作品が示す未来の苦悩は、僕らの世代で現実になるだろう。
結果を知りながら戦争を止められなかったように、公害病に直面しながら汚染を続けたように、来世紀もまた僕らは苦悩の穴に突入していくだろう。
暗い未来像を描き変えることはできるのだろうか。民族独立と叫びながら昨日までの隣人を襲撃したように、ただそこにある穴に墜落するだけなのだろうか。
一つ忘れていた。世紀末ぎりぎりにホンダは突然ヒト型ロボットを現実のものにした。僕はリアルタイムでそのニュースを見た。人類が月に立つのを見る事が出来なかった僕も、ロボットの誕生は目にする事が出来たわけだ。朝日新聞の予想も一つくらいは当たったことになる。
果たして10年後に実用化されているはずのロボットは、僕らの友か、それともドレイか。彼らに対して我々が抱く感情は、士郎正宗が描いたようなものか、手塚治虫のそれか、それとも沼正三か。
21世紀になった。我々が近い将来手に入れるものは、一体何なのだろう。我々の精神は、どう変わるのだろう。