前作から半世紀を経て作られたオーケストラと映像の協奏曲。
前作の『ファンタジア』を何故か僕は劇場で見たような気がする。どこで見たのかは忘れてしまった。素晴らしいファンタジーだと思う。これをビデオやテレビではなく劇場で初めて見たのは(それがこの作品をビデオ化しないディズニーの戦略の結果だとしても)非常な幸運だと思う。
今回、『ファンタジア2000』を、IMAXシアターで初見とする事が出来たのも、また幸運だった。この作品は当初 IMAX 向けに作られた。初公開は国内でも IMAX だったが、後で(少なくとも国内では)通常の劇場で公開された。僕はロードショーを見逃し、通常の劇場公開も見送って、結局 IMAX シアターでのアンコール上映を見る事になった。しかしこの作品には IMAX が絶対だと見てすぐに思った。まだ見た事が無い人は決して通常の劇場で見てはいけない。IMAX のチャンスを待つべきだ。10年かかっても待つべきだと思う。その価値がある。
『ファンタジア』はウォルト・ディズニーの挑戦だったと思う。当初から音楽と映像の同調を執拗に追い求めていた彼は、『ファンタジア』でストーリー性や一般性を排除してでもその限界を追求したかったのだろう。新しい技術、極端な表現、過剰なまでの光線がそこには詰め込まれていた。
『ファンタジア』以来、ディズニーは浮沈を繰り返しながらもハリウッドで生き残った。成功のさなかでも、低迷の底でも、彼らは様々な挑戦を繰り返してきたと思うが、それでも『ファンタジア』ほどのジャンプは試みなかった。ある意味『ファンタジア』は 50 年間、封印されてきた彼らの魂なのだ。
それを破って本作は産み出された。前作の到達点を遥かに越えて、新しい表現を試み、再び音楽との合体を実現した。強烈な表現、荒い技術。しかしメッセージは伝わる。そのイマジネーションは、目に映るもの、耳に届くものを越えて僕の脳ミソの中で再構成される。目の前に映る視野いっぱいの IMAX の映像を、サラウンドの音響を遥かに越えて、彼らのイマジネーションが僕のイマジネーションに生まれ変わる。
最後の一編『火の鳥』はとりわけ象徴的だ。このエピソードは、死ぬ度に生まれかわる火の鳥を題材に、大地の再生といのちの存在そのものの美しさを、多く手描きのイメージで大胆に訴える。描写は従来的な漫画(cartoon)調のディズニー・スタイルとは異なり、ある意味ジャパニメーションと呼ばれるような日本のアニメーションに近い緻密なものだ。
また、このテーマはアニミズムを根底にもつ日本人にむしろ馴染みそうだ。『もののけ姫』の輸出で宮崎駿の生命観がどう伝わったのかはわからないが、漫画『風の谷のナウシカ』で彼がとりあげた、生死の姿としてのいのちの美しさが、この作品からも感じられる。もちろん僕らとは多分に異なる世界観を持つ西洋人(とりわけアメリカは何と言っても人造国家だ)にとってどう映るのかは分からないが。
そして敢えて彼らは前作の最後の一編『魔法使いの弟子』を本作に再録している。この半世紀前のディズニーの回答は、今でも全く古びていない。ストーリーも、映像も、音楽も、すべてが生きている。新旧の作品との違い、また共通点、それらからディズニーそのものの本質が透けて見える。変わらないディズニー、変わるディズニー。その意味で『火の鳥』は間違いなく今のディズニーの姿そのものだ。
古典は永遠に古くならない。今も『源氏物語』は読まれている。『魔法使いの弟子』は不滅の短篇として後世に残るだろう。『火の鳥』が放つ光も、おそらく消えはしない。半世紀後でもまだ輝き続けていることだろう。