原題は The Wisdom of Crocodiles だそうで、出典からすると妥当な邦題だと思う。純粋な恋愛とサスペンス。
似ている。雰囲気が。クローネンバーグに。
自分を愛するものの血を体に入れなければ自分の体が崩れてしまう。男は次々と女性に近づき、殺し、血を啜る。いままでうまくやってこられたのに、ある女との出会いが彼のロジックを狂わせてしまう。
男に必要なのは一点の曇りもなく、純粋に自分を愛してくれる女の血液だけだ。それを得るため、男は女に愛されるよう、時間と手間をかけて、すべてを予定通りにコントロールし、目の前に再び「それ」を作り出した。自分の体はいまにも壊れそうだ。もう呼吸は何度も止まっている。女の体から「それ」を取り出し、自分の体に入れなければ。
男は女たちの最期の一瞬にそれぞれ「恐怖」や「絶望」を感じ、それまでの女の記録の最後にそれぞれ書き留めて保管する。男は外科医だが、患者は自らの感情を体内に結晶化させるといい、それを収集している。女たちの血を飲んだ後に自分が吐き出す血さえ、彼はそれを本に綴じる。その手続きを経ることで女は彼の一部として理解され、固定される。理解できないうちは、それを確かなものとして彼の肉体の一部とすることが出来ないからだ。
理解すること、またその理性は彼の存在そのものだ。
彼の肉体はもう彼のコントロールを離れていた。いつ崩れ、停止してしまうのか分からない、外科医である自分にも理解できないその不条理な肉体を相手に、彼は理性を頼りに自分の存在を確かなものにしようとしていた。しかしある女の出現によって自らの感情そのものが理解できないものだったと初めて気づく。
相手の感情すら理解し、コントロールして「それ」を取り出す事に執心してきた彼は、自らの感情もコントロールできるものと考えていた。自分の感情を理解できると思っていた。しかし違っていた。彼は自分の感情を理解しなかった。彼は人間の心を決して理解しなかった。そのことを、女と出会って初めて知った。
今や彼の感情そのものの危うさは、彼の存在すべてを危うくしはじめた。男はその女だけは殺せなかった。女ではない、女を愛する自分の感情を前にすくんでしまった。
コントロールできない自分の肉体に恐怖して毎日を過ごしてきた男は、今度は自分の精神の闇に恐怖する。もう逃げ場はない。
自分自身の中の闇に追い詰められる構図はクローネンバーグの作品に幾つか感じられる。自らの闇に落ちる、不可抗力的墜落と、その衝動。怖れと快楽、忌避とあこがれの両方が描かれる。不安定な自分を見詰め続ける事のストレスと快感。
この作品の冒頭に、男が子供の頃に事故で落下し、木につかまって助かった時の回想がある。その時の体の痛みは何故か快感とともに記憶されている。その二面性。
また、男は、患者の体から出てきた結晶は、患者の感情そのものだと言う。クローネンバーグの初期の作品でもストレスは形となって表れた。寒々しい背景と、孤独と、愛情と、結晶。奇妙に符合する構図だ。
実は監督はクローネンバーグのファンではないのだろうか。主演のジュード・ロウは少なくともファンらしく、それ故の『eXistenz』だとの事。彼を観賞するにはまあまあ悪くないと思う。『ガタカ』『リプリー』と、癖のある役を通して作品全体を魅力あるものにしている。
パンフレットではどうしたことかこれが吸血鬼映画とされており、とてつもない違和感を感じた。似たような幻影にとりつかれたシリアル・キラーは過去に実在したはずだ。ファンタジーとしては余りに詰まらない。現実的な精神の彷徨のストーリーとしてこそ魅力的な作品だと思う。