ホラー雑誌に掲載された短篇集。怪奇譚であるべきだが、かなりコメディっぽい。要するに作家の脱線癖を編集側がコントロール出来なかったということか。
彼の作品には悲劇が似合う。不条理で、解決不可能な悲劇が、自らを切り刻むという不可逆な行為にまで登場人物を追い込む。
『ベティ・ブルー』は激情が生む悲劇に思えるが、彼の悲劇はその原因が余りに絶対的すぎるためか、極端に静かな情を軸としている。その冷たい情熱が僕の神経を奇妙に刺激する。
本書の『猫の実』はその意味で印象深い、好きな一編だ。
ある日、少女は女の死体に遭遇した。女の死体からはやがて草が生え、少女はそれを持ち帰って庭に植えた。しかし草は水をやっても育たない。少女は元の死体に代わる肥料として猫を一匹殺して草の下に埋めた。草は育ち始め、やがて人間と猫を合わせたような胎児の形をした実が付いた。ある日、実はなくなり、草は枯れ、女を殺したはずの男の惨殺死体が発見される。
少女は草から生まれた怪物の、「女」が復讐を果たしたと考えるが、次は「猫」の方が復讐のために自分の前に現れるかも知れないと考える。死体から生えた草が産んだ怪物が、自分をきっと引き裂きに来る。ワクワクしながら少女は眠りにつく。
そのシーンに不思議な面白さを感じた。絶対的な力によって破壊される自分を想像する少女。余りに冷たい情熱を感じる。自分を潰しに来るものへの畏怖。『BULLET BALLET』の女も同じ事を考えながら聞こえない悲鳴をあげていた。
この奇妙な感情について、僕は偶然に非常に良い記述を発見した。
米国ハーバード大の社会生物学者、E.O.ウィルソンは、捕食者としてのサメに対して人間が抱く感情について、「私たちは捕食者を恐れるだけではない」と書いている。「捕食者に魅せられ、その物語やおとぎ話を編み出したりもする。なぜなら、それに魅了されれば備えが出来るし、備えが出来れば、遭遇しても生き延びられるからだ。本能的に私たちは心の奥底で、自分たちを襲う怪物を愛しているのだ」と。(National Geographic Japanese edition, Apr. 2000 issue pp.50)
怪物への愛情。畏敬と、恐怖と、死と、愛情。生き物本来の命のやりとりは『風の谷のナウシカ』で「それが彼らの愛情なんだ」と描かれた。僕の心が探しているものの一つは確実にそれらのなかにある。