いつか、どこかの国で、ほんの少しのズレから破滅していく男の物語。傑作。
全編にながれる独特の曲、その名も『Brazil』。本当なら明るいなめらかな曲なのに、この映画のせいで、僕の中では極端に歪んだ、カリカリした、非人間的な曲として記憶されてしまった。
傑作だと思う。もう10回以上は見ていると思う。滅多に繰り返して見る事がない僕にとっては実に珍しい。そして見返す度に傑作だと思う。個人的には最も優れた未来映画の一つだと思う。
その世界観も、映像感覚も、なにもかも好きだ。本来緻密なはずのストーリーの途中に、それを叩き壊すように挿入される妄想シーンも好きだ。この作品を見ている間、僕はまるで注射を打ち込まれたように脳味噌が麻痺する感覚を味わう。テリー・ギリアムの迷路に迷い込むのを恐れてしまっては物語に振り切られてしまう。しかし信じてダイブしさえすれば、きっと多くの人にとって楽しめる作品になるはずだ。
未来を想像する事は、他の何とも異なる基準線で図面を引いた別世界を構築することに等しい。現在の延長である僅か先の未来予想図など、長く残って伝えられていくはずのフィルムの中で、端から色あせ朽ちていくだけだ。陳腐な未来映画などいらない。全くの別世界を構築する事が、いつまで経っても近づけない永遠の未来像を手に入れる唯一の方法だと思う。これはアラン・ケイの「未来を予測する最良の方法は、それを創造してしまう事だ」という主張と奇妙に重なり合う。そしてそのいずれも実際に行なう事は相当に難しい。
テリー・ギリアムは映像作家として最もその領域に近付いている一人だと思う。先日亡くなったがスタンリー・キューブリックと並ぶ。
劇中では過度にシステム化された社会が、結果的に人に対して非人間的な振舞を強要するというエピソードが執拗に描かれる。その意味でモチーフは『モダン・タイムス』と同じであり、背景に見え隠れする様々なオブジェのような機器類も、やはりこの作品を思い起こさせる。しかしその冷酷さ、非情さにおいてテリー・ギリアムとチャプリンでは大きく異なる。
『ブラジル』では、主人公のなかに存在する狂気と正気が常に同時に描かれる。そもそも彼の正気は劇中において狂気としてのみ描かれる。過剰にシステマティックな劇中社会においては彼の言動は狂気と見なされ、観客からは常軌を逸した短絡的行動と見なされる。
遂に彼は人格改造プログラムとして、マゾヒストの医師の手で椅子に縛り付けられ、有無を言わせず手術されてしまう。しかしその医師は自分を良く知る友人なのだ。何と冷え冷えとした世界だろう。この絶望的なラストシーンの温度感は『時計仕掛けのオレンジ』と奇妙にシンクロする。
ギリアムは全てを狂ったものとして描くことで、我々の隣にある狂気を笑い飛ばそうとしているようだ。だが、ともすれば湧き上がるそうした思いを彼は自分から振り切ろうとするように、彼のイマジネーションを先へ先へと進める。彼の幾つかの作品に見られるこの強烈なイマジネーションの噴出は、まるで観客を無視しているようだ。しかしこれに負けてしまってはこの作品を見る甲斐がない。
もう一度強調しよう。ギリアムの迷路に迷い込むのを恐れてしまっては物語に振り切られてしまう。信じてダイブしさえすれば、きっと多くの人にとって楽しめる作品になるはずだ。見るべし。