仮想現実ゲーム、eXistenZのデモンストレーションが小さな教会の一室で行なわれた。そこに居合わせた男は、ゲームデザイナーである女、「ゲームポッドの女神」と共に事件に巻き込まれる。
クローネンバーグ数年ぶりの新作である。しかも実に久しぶりのオリジナル脚本である。見なければならない。他の映画の前に流された予告編がどんなに薄気味悪かろうと、見なければならない。ファンと言うのはそういうものだ。
しかしどういうわけか普通の観客と思われる人が劇場にかなりいた。何を期待して見に来たのかは分からないが、ゴールデンウィークに見る映画を間違えてしまったとしか思えない。気色の悪い場面になる度に劇場のあちこちで小さな声と共に客の体がのけぞるのがわかる。
仕事柄、複数人が同じフィールドで関係する仮想現実ゲームが、ある特定の一人の主観で描かれているのは不十分、とか、今回初めて使ったCG処理が彼の作品に相応しいか否か、というような事も気になるところだが、他に書きたい事があるのでここではやめておこう。
さて、毎度の事ながらキャスティングはなかなか面白い。ジェニファー・ジェイソン・リーをカリスマ性のあるデザイナーに、なんとも影のあるジュード・ロウを巻き込まれ型の主人公にしている。ウィレム・デフォーが実にハマっている怪しい店員。前作、『クラッシュ』もキャスティングは面白い線をついていた。どうやら俳優陣にはクローネンバーグは人気のようだ。
そして今回のジュード・ロウに至っては「監督のファン」だったから出たと言う恐るべきコメントをどこかの雑誌で読んだ。どんなにこの作品が不成功だったとしても、次作も俳優には困らないに違いない。
そう、今作はいまひとつだった。『ヴィデオドローム』に近い内容ではないかと思うのだが、構成が余りにも分かりやすい。実にはっきりしたストーリー展開、結末であり、クローネンバーグ作品を見続けて来た身としては実に不思議だ。却って物語の焦点がぼけてしまっている。
どうしてこのような構成をとったのだろう。こんなありがちな結末を選び、彼は今回何を描きたかったのだろう。
僕は彼の映画については、その墜落感覚に魅かれている。ほんの少し日常から逸脱したために、男は自身の暗闇の中に迷い込む。そして僕も共に自分の中に墜落するのだ。(これは全作品に共通するものではないと思う。『Mバタフライ』をはじめとして、僕が魅力を感じなかった作品は幾らもある。最近では『クラッシュ』で少し溜飲を下げた。)
こうした日常からの逸脱を題材に、人間のある局面を描く、というのは本来的なSFが用いる表現と同じだ。つまり一般にはSF映画と分類されても良いはずなのだ。
しかし彼の作品は良くホラー表現について取り上げられる。それは恐らく彼自身の描きたいものに対する表現が、他の人から見て恐ろしげに見え、突出しているからだろう。もちろんこれは彼が恐怖の中にこそ自己の表現を見い出している事と同義なはずだ。少なくとも彼にとっては。
グロテスクで突出した表現は、彼の作品に空けられた墜落への大穴だ。(もちろんホラー表現が全ての作品において主要なわけではない。僕の大好きな『Dead Zone』では、「通常の表現で(自談)」やり通している。)
困った事に、この作品に、僕は墜落点を見つけられなかった。そして余りにも分かりやすい構成。焦点の甘い主張。『裸のランチ』では余りにも分からない構成に、踏み外したと言っても良いほどの飛び出した表現。それと同様のアンバランスさを感じてしまう。
思えばクローネンバーグの作品は常にこうした均衡の不調が付きまとう。誰かにとっては常に何かが足りず、何かが余計に感じられるのかもしれない。多くの人にとっての均衡点はどこにあるのか?
だが僕はそんなことはどうでも良い。僕が欲しているのは僕にとって表現と墜落点の均衡がとれた、その一本だけだ。『戦慄の絆』を超える墜落に、僕を陥れて欲しい。そう願っている。