Cinema Review

ファイト・クラブ

Also Known as:Fight Club

監督:デビット・フィンチャー
出演:ブラッド・ピットヘレナ・ボナム・カーターエドワード・ノートン

酒場の地下では夜ごと男たちが殴りあう。はじめは男たちが自分を取り戻すための秘密同盟だったが、次第にエスカレートしていく。

子供の頃から体が小さく、気弱な僕は殴り合いなどしたことがない。普通子供のケンカで殴り合いはない。怪我をしないように手加減するものだ。つまり相手を傷つけるほどの喧嘩をするような年頃には、もう僕はそんなことをしなくなっていた。環境や制約がそうさせたといってもいい。僕には一つ上の兄がいて、小さい頃よくケンカをした。けれど中学生のある日のこぜり合いで、互いにケンカをしては怪我をすると直感し、互いにやめてしまった。それ以降友達などともケンカなどはしなくなり、結局殴り合うような事は一度もしたことがない。幸せな事だ。
しかし不幸かも知れない。社会的な環境や制約がそうさせているかも知れないからだ。僕は抑制されているのだろうか。違うのだろうか。

暴力によって自分の独立を確認したいという願望は果たして誰にでもあるものなのだろうか。他人を屈伏させる事が目的なのかも知れないが、それだけではない。勝負が関係ない場合もある。
殴り合うという最も原始的で単純な行為が思い起こさせる意味は、単純ではないのだ。

この作品の中の人物たちは抑圧から自己を解放するためか、何のためにか、互いを殴り合い、傷つけ合う。
他人を殴れ、自分の肉体を壊せ、今まで避けてきた痛みを感じる事で自分を取り戻せと言う。恐るべき誘惑。
壊してみたい。血を流してみたい。他人のからだでも、自分の血でもいい。
僕はこの作品を見て、自己破壊の末に何が残るのか捜してみたかった。デビット・フィンチャーと一緒に落ちていくのはあまり気分のいいものでは無さそうだが、しかしそうした墜落には魅かれる。僕が欲しているこの落下感を、例えばクローネンバーグは『クラッシュ』において破壊という方法で表現した。

しかしフィンチャーは途中で自己破壊の追求を放棄し、後半何故か全く僕が興味を持ち得ない、フィンチャー自身興味がありそうな気がしない、テロ活動のストーリーへと焦点を移していく。奇妙な不均衡を感じる。落ち着きの悪さ、すわりの不自然さ、というような種類のものだ。
彼は『エイリアン3』『セブン』『ゲーム』それぞれに観客の期待を裏切り、見るものの感情移入を拒否するように筋書きを作ってきたように思う。人に好まれるのを避けているようだ。少なくとも僕には居心地の悪い映画作家だ。クローネンバーグは観客から受け入れられることも、拒否される事も共に恐れはしない。
この作品での後半のすわりの悪さは、まるでこの拒否感の表れのようだ。

フィンチャーの作品は絵に好きなところがあって見るようにしているのだが、今作ではそれもあまり無かった。前半部分のテンションの高さ、落下感覚がなかなか気持ち良かっただけに残念だ。

さて、脱線するが、彼の映画はオープニングタイトルにカッコ良いものがある。『セブン』ではカイル・クーパーが手掛けたはずだが、この作品のタイトルもなかなか良い。誰の仕事なのか、ともかく見るべし。本編は上に書いたようなわけであまり推薦できないが。
ヘレナ・ボナム・カーターが良かったと個人的には思う。特に重要な役でもない(彼女無し、つまり女性キャストゼロでも成立した作品だと思う)し、彼女でなくても良かったと思うのだが、とにかく僕が見た事がある他の作品での彼女より遥かに良かった。
何故か僕は『眺めの良い部屋』『鳩の翼』などで彼女が貴族風の衣装をまとっているものばかり見ているのだが、見る度にあまり合っていないと思っていた。そもそも痩せているし、体の線も顔の線も少しギスギスしている。少し斜に構えた、むしろエキセントリックなスタイルでもっとはえると思っていた。果たして、この作品でそれが証明された。彼女のファンには強く推薦する。
ブラッド・ピットは怪しげな役が多く、人格が破綻したような男が似合う。『12 Monkeys』へのイレ込み様は尋常ではない。先日ビデオで『ジョー・ブラックをよろしく』を見たが、そこには『リバー・ランズ・スルー・イット』で見せたロバート・レッドフォードそっくりの好青年がいた。良いコントラストだと思う。

Report: Yutaka Yasuda (1999.12.30)


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