ドキュメンタリー映画の取材のために森に入った三人の学生が消息を絶った。一年後、彼らの撮影したフィルムだけが公開される。
見終った最初の印象は「普通に映画になってるなあ」というものだった。なによりちゃんと編集されている。むしろ非常にうまく編集されていると言って良い出来だ。カメラが全編を通じて僅か三人の登場人物の視点(つまり主観カメラ)になっているので、適切な断片を適切な順で観客に見せる事で、省略された設定や背景を伝える仕事をうまく果たしている。つまり相当に巧妙なプロットの元に編集されたはずなのだ。とにかくこのうまさによって、映画としてきちんと見られるようになっている。
画像の方も「酔うかも」などという情報が事前に流れていたのでかなり危険かと思ったのだが、実際には楽に見られると言っても良いくらい、比較的安定した画像だった。
自主製作映画のように、製作者が役者を兼ねているのではないかと最初思っていたが、パンフレットを見るとそれも違っていて、出演者はちゃんとした俳優さんを製作者とは別に選んでいる。しっかりしているのだ。
この余りにガッチリした構成のため、逆に少々僕の緊張感はゆるんでしまい、恐さと言う点からは少し離れてしまったと思う。すなわちいつものように映画の観客になってしまったのだ。似たようなドキュメント構成の作品としては『FOCUS』がある。これは俳優(浅野忠信!)にしても取材内容にしても遥かに作りものっぽいのだが、少なくとも緊迫感と言うか強迫の度合は『FOCUS』の方が強く、僕は引き込まれた。強制的に見せられている気分だ。
途中さまざまに登場し、登場人物を恐がらせるエピソードが、どれも人間相手であることが興味深い。『リング』では決して恐怖の相手が人間だけとは限らなかったし、そうした人知を超えた(即ち抵抗して打ち勝てる見込みの無い)相手に底知れない恐怖を感じる種類のものだった。しかしこの作品ではほぼ一貫して人間が恐いようだ。
人間の叫び声。テントを揺するなにものか。木の人型を吊るす誰か。信頼できないパートナー。どれも皆、ひとが相手だといえる。そうしたものが恐さの源泉となっている。
対して日本で恐怖ものというといきおい超自然的な話になってしまう。文化的、歴史的な恐さの素(もと)の違いかなあとぼんやり思った。
広報の方法がユニークだったと良く言われる。ネット上でまず情報を流し始めて、と言うようなものなのだが、国内ではアッサリとテレビの地上波に流されてしまって、実にもったいない事をしたと思う。徹底的に見せない、情報を制限して好奇心と一緒に恐怖心を煽る手法でもともと成功したと言うのに、全くそれに反している。地方向けのケーブルテレビに少し露出するとか、ネットを使わない方法すら幾らもあると思うのだが。
出口で「キャラクターグッズ売ってます」と店員が叫んでおり、はてなんだろうとパンフレットを見たら小枝で人型を作るためのキットがあった。1200円もする。小枝と枯れ葉とヒモだけだ。作り方説明書もついていると言うのだが、史上最も無茶なグッズじゃないんだろうか。
広報も含めて、こうした周辺のことが、センスの違いという意味で作品の雰囲気を台無しにしていると思う。本国ではアルチザンという良い配給会社を得たようだが、国内では失敗してしまったんだな、と、僕には思える。