完全主義者の連続銀行強盗団のボスと、それを内偵する刑事。二人の微妙な関係を描く。
何故か僕の心に残る、不思議な作品。
最初にキアヌ・リーブスを見たのがこの作品だったような気がする。そのせいか僕の中の彼のイメージは常にこの作品のものだ。刑事という役だが、刑事としての印象より感受性の高いナイーブな若者と言うイメージが支配的。何と言うか線の細い感じだ。果たして『スピード』で見せた彼の印象とは似ているようで根本的に異なる。彼のファンには申し訳ないが、僕は彼の作品を他にほとんど見ていない。
この作品の構成で、刑事役が線の細いタイプと言うと奇妙に感じるかも知れない。凶悪犯罪の刑事でそれはないだろうと。しかしふしぎとナイーブさがマッチしていて違和感が無い。それが役者に合わせてそう設定した結果なのか、それとも設定に合わせて彼がそうしているのか僕には分からない。
相手役のパトリック・スェイジは何で最初に見ただろう。少なくとも『ゴースト ニューヨークのまぼろし』ではない。何故か余り好きにならない俳優なのだが、この作品の彼は好きだ。
彼が演じる犯罪者集団のリーダーは完全主義者であり、常に周囲の人間を支配しようとする。刑事と知りながら直感でキアヌを仲間にしたい、またそれが出来ると感じ、誘い続ける。自らを危険にさらしながら、それでも自分の直感と、自信を現実にしよう、そして自分の能力を証明しようとする。
キアヌ演じる刑事は、刑事としての自分と、犯罪者に魅かれる自分との間で奇妙に揺れる。そうした自分に驚きながらも、なんとか自分をうまく飛ばし続けようとする。
見ている僕もこの刑事にシンクロするように揺れていく。それがこの作品の印象の核になっている。
最後に男は、そこに刑事が待っている事を知りながら、自分が信じた海岸にやってくる。自分が待ち望んでいた、台風が生んだ伝説の大波に乗るためである。しかし男は刑事に会いたかったのかも知れない。刑事のいる前でその波に乗る事が彼自身の能力の証明だったのかもしれない。それこそが彼自信の存在証明だったのかも知れない。
男はとても乗り切れるはずのない大波に飛び込んでいく。刑事もそれを止められない。男は行かなければならない。彼は自分自身の証明のためにそうしなければならない。
刑事の中の揺れる心情に、見ているこっちが感情移入してしまう瞬間がある。普通の映画だとこの辺りの描き方が雑なせいで、どうしても感情移入するべき相手が、ただの頼りない男に見えてしまったりするのだが、この作品ではそれが薄い。きわどい線だが、自分自身の中にそうした誰かに引き込まれそうになる感情があることを発見させられる。適切な表現が見つからないが、自身の中の女性を発見しているのかもしれない。
僕自身、自信の無さから虚勢を張る事が多くて嫌になる。自身を証明するために行動する事も多い。尾崎豊が「勝ち続けなければならない」と言うことに強く共感する。何故だ。
そういうわけで僕は、この男は行かなければならなかったのだと信じる事が出来る。そしてそこには刑事が待っていなければならなかったのだと思う。
何故か僕の心に残る、不思議な作品だ。