裕福な内科医ウィリアム・ハーフォード。彼はある晩、マリファナを吸っていた妻・アリスとささいな事で口論になり、彼女の口から思わぬ言葉を聞き出してしまう。「バカンス先で出会った海軍士官と一夜を共に出来たなら、あなたと娘を捨てても良いと思った」と。ちょうどその時、患者の一人が亡くなったという電話が入る。ウィリアムは患者の下へ急ぐ為、ショックと嫉妬を抱いたまま夜のニューヨークに出掛けていった。
スタンリー・キューブリック監督最新作にして、遺作。
トム・クルーズ、ニコール・キッドマンという実際の夫婦による性描写が宣伝段階で注目されていたが、描写そのものはそれほど過激なものではなかった。
確かに『博士の異常な愛情』『2001年宇宙の旅』『時計仕掛けのオレンジ』『フルメタル・ジャケット』など、それぞれの時代に対して衝撃的な作品を連発したキューブリックにしては、おとなしい作品だと言わざるを得ない。だが、それは現代という時代に対して、一見おとなしいというだけの事である。前述した作品群とて、今見れば、それ以上に過激で衝撃的な作品など幾らでも有る。これらの作品は時代を超えた普遍性を映像やテーマに持っているからこそ、現在も魅力が色褪せる事が無いのだと思う。時代に対しての衝撃度など一過性の物でしかない。そういう視点でこの作品を語るのは、あまり意味の無い事ではなかろうか。逆に、意図的に現代的な時代性を感じさせる要素を排除した様にすら思える。
この映画のテーマは、「愛と性欲、それに付きまとう罪悪感と死」であろう。愛に忠実でありたいと願いながら、性欲に取り憑かれ引きずられる人間の哀しみ。その狭間で生まれる罪悪感を象徴する様な、死の影。中盤で出て来る性の饗宴が、仮面を付けた儀式として行われるのは、機械的な快楽としての性と人間性を失いつつ有るその虜を表現しているのだと思う。
また、今作の独自の視点として、現実に起こる実行としての欲望だけではなく、現実には起こらなかった欲望や妄想もそれが性欲の虜となった証として罪深く描かれている。一番生々しい性描写が、ウィリアムが勝手に想像するアリスの浮気現場というのも、それを端的に表しているのではないか。
だが、この有る意味ストイックな観点は、誰にでも起こりうるという普遍性を持つと同時に、映画の中では結局何も起こらないという分かりにくさを生んでしまった。
普通のストーリー・テリングな映画と考えると、少々辛いのも事実。
結果としては何も起こらない上に、序盤は微妙な会話による心理描写が続くので、集中力を持って見ていないと退屈してしまうだろう。ウィリアムが夜のニューヨークに出ていく中盤以降は状況がサスペンスな刺激となって楽しめるが、「性の饗宴」の実態を映画の中で語られるままに受け止めれば、実に他愛のないものでサスペンスとしても中途半端に感じられるに違いない。まぁ、正直に受け取って良いものかどうかは疑問だが。
後、蛇足気味だが、映像の中の色の配置の美しさ、流れる様なカメラワークの楽しさ、音楽の使われ方の秀逸さが健在だった事も付け加えておく。この部分だけで映画を楽しむ事も可能だ。
私などが書くのは僭越だが、良く見れば、本当に良く組み立てられている作品だ。それが、どれだけの魅力を持って立ち現れて来るかは別問題だし、突き詰めれば観客個人の問題かもしれない。分かりやすい部分は全て寸止めになっていて中途半端な印象を与えるが、この作品に関しては何度も見なくては納得は出来なさそうだ。
過激な性描写を期待して見ると、肩すかしを食らうに違いない。そこら辺にいる普通の人々の方が、よっぽど修羅場をくぐり抜けているだろうから。『時計仕掛けのオレンジ』や『2001年宇宙の旅』に見られる、リアリティーある架空の世界というのも当然期待できないので、SF映画好きが観てもなんら楽しくはない。また、娯楽映画では無いので、年に一度しか映画館に行かない観客が観るたぐいの映画でもないだろう。映像の美しさで映画を十分楽しめる観客や、言葉・映像を深読みする観客向けの作品だと思う。