Cinema Review

1999年の夏休み

監督:金子修介
作者:萩尾望都
出演:宮島依里、大寶智子中野みゆき、水原里絵

近未来、郊外にある寄宿学校は夏休みに入り、3人を除いて全ての生徒は自宅へと帰っていった。残った和彦・直人・則夫は、自分達で時間割りを作り、食事当番を決めて、生活していた。そこへある日、先日死んだ少年・悠に瓜ふたつの薫が、転校生としてやってくる。

原作は『トーマの心臓』(萩尾望都)という少女漫画である。この漫画は、中学生当時の私にとって、バイブルの一つの様に大きな存在であった。よって、公開当時からこの映画が気にはなっていたものの、改変具合が恐ろしくて見る事が出来なかった。
そして、10年近く経てようやく観た結果、原作の設定やストーリーが残っているのは、ほとんど基本設定だけだと感じた。ただ、どうせ変わるなら、この位違う方が原作ファンとしては気が楽かもしれない。

この映画には5人の少年しか出てこない。そして、それを演じているのは4人の少女である。なぜ、少女なのか?
おそらく、そこにある種の虚構性、非現実感を作りあげたかったのだろう。それは、極端に閉鎖された状況設定からも伺える。そして、もうひとつ、未分化な性を表現する目的もあったのではないだろうか。
だが、少年と少女では、明らかにその場に写る意味が異なってしまう。
少年はその未完成さから精神的な存在感が強いが、少女はある種の早熟によって肉体的な存在感が強い。
よって、作品全体は耽美的な雰囲気でありながら、私は、彼女たちにある種の生々しさを感じてしまった。
また、それは身体的なラインの違いからも言えるかも知れない。基本的に少年は直線的なラインをしているが、少女は既に曲線で構成されている。さて、どちらに映像的な生々しさを感じるだろうか。
演技も男性性を意識すればするほど、逆に女性性を感じさせてしまう。

ただし、この作品が映画デビュー作になった水原里絵(深津絵里)にだけは、なぜか少年としての存在感があった。演技で過剰に男性性を意識していない部分もあるからだろうが、当時の彼女の身体的な未成熟さも少年を感じさせた要因かも知れない。もともと少年っぽい雰囲気のある女優だが、現在の彼女がベリー・ショートにした所で、当時ほどの少年性は感じられないだろう。
中性的、もしくはノンセクシャルな雰囲気を作ろうとしたのなら、もう少し低い年令の少女か少年を使った方が良かったのではないだろうか。もしも生命感を出したかったのであれば、まるで構わないのだが。

撮影に関しては、『猫耳』にこそかなわないが、空の青色と森の緑色の美しさが素晴らしい。特に、森の中を歩くシーンでの立体感がとても面白かった。室内の撮影も薄っぺらでは無く、かといって重くもなり過ぎない質感が心地よい。

所でこの映画、近未来ものという事で、出て来る小道具も面白かったりする。
卵割り機、TV、アナログプレーヤー、電話にパソコン。ほとんどが機械構造をむき出しにしたデザインで、見た目がいかにもという感じで良い。特に小さい電話器が気に入ってしまった。まぁ、とても掃除しにくそうではあるが。
現在(1999年8月12日)スケルトンの商品が少なからず存在している事は、この作品のちょっとした先見性を感じさせる。

作品に対しては、永年の期待と不安のせいもあってあまりノレなかったというのが、正直な感想だ。雰囲気や映像、一つ一つのシーンは良いのだが…。前述した少女への違和感も原因だと思うが、テーマが見えにくかった事も原因の一つか。ただ、この作品にテーマ性を求めてしまうのは、やはり原作へのこだわりが抜け切っていないという個人的な理由もあるのかもしれない。

Report: Jun Mita (1999.08.13)


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