はるか昔、まだ神々と人間が同じ世界に住んでいた頃。神と人の間に生まれた子、アリオンの成長を描く。
実はこの漫画は結構好きなのだ。ただ兄貴が買っていたせいで、今僕の手元にない。近いうちにまた読み返してみたい。
作者の安彦良和は『ガンダム』など多くのテレビアニメで有名だろう。映画では監督だった『クラッシャー・ジョー』が有名だろうか。彼はこれ以外にも幾つも漫画を書いているが、『アリオン』が最初に手掛けた本格的な漫画だったはずだ。
当時は、アニメーターが漫画を描く、と言うことがまだ珍しい頃で、他には『風の谷のナウシカ』を宮崎駿がかなり不定期に連載していた程度だったように思う。描く方も描く方で、安彦さんはコマの枠線を特殊な筆でフリーハンドで引いていたし、スクリーントーンなんて全然使ってなかった。宮崎さんに至っては鉛筆ですべて描いていてペン入れしないスタイル。つまり漫画のセオリーを外しまくっていた。しかしその荒々しいタッチに僕が惹かれたのもまた確かだ。後には安彦さんもちゃんと漫画家風に普通のペンを使っている。
しばらくしてアニメーターを含めた、本業非漫画家に積極的に漫画を描く場所を提供する「モーションコミック」などという雑誌も出たが、さてご存知の方がどれだけおられるか。
とにかく、これらの作品はアニメーターが描いていたということで、その映像的な表現が話題になった。例えば『風の谷のナウシカ』なら、スピード感溢れる序盤のナウシカと装甲兵士との決闘シーンなどが僕は大好きだ。
この作品では、冒頭、幼少の頃のアリオンが駆けてくるシーンが印象に残っている。作者独特のしなやかな体の動きとスピード感に満ちている。それが実にうまく大胆に割られたコマに閉じ込められている。それ以降繰り返される成長したアリオンのアクションシーンでは、更にゆっくりとしなやかに、そしてダイナミックに描かれる。その躍動感がいい。
上の例はダイナミックな場面における映像的な表現センスだが、そうでない比較的静かな場面でも、これら本業アニメーターの作品には従来的な漫画とは違う雰囲気を感じる。
思うに彼らは職業柄、常に空間の中に何がどこにあって、どう移動しているかということを把握して表現しようとしているからではないだろうか。つまり空間を描こうとしているのだ。一般に漫画は「止め絵」の構図が多く、空間を余り感じない。一つ一つのコマどうしの空間的関連性は表現においてそれほど重要ではない。(それらが漫画には存在しないと言っているのではない。ただ動画に比べてそういう傾向があり、空間感覚が希薄であっても成立し得る表現手段なのだということだけを漠然と思う。)
『DAICON IV』アニメーションの爆発(?)シーンや、『マクロス』(の動くマクロス)『ナウシカ』(の崩れる巨神兵)などのシーンを見るにつけ、庵野秀明というアニメーターの空間感覚には恐れ入る。空を飛び散る破片の一つ一つの位置と動きが頭の中に入っているようだ。そうでなければ描けるものではないと思ってしまう。彼はそれを執拗に描く。
最近はアニメーターに限らずさまざまな表現が漫画の形式で試みられているようだ。大友克洋は漫画の世界でやってきた人だと思うが、『童夢』『アキラ』などには多く非常に映像的な表現が見られる。『MEMORIES』では映画の監督も手掛けた。残念ながら『スプリガン』は未見。士郎正宗は『アップルシード』『攻殻機動隊』などで、執拗にコマのつながりや動き、その流れを追っている。
これらに対してしげの秀一の『バリバリ伝説』などは、疾走する単車をダイナミックに描きながらも、その表現はあくまで漫画的で、先に挙げた諸作品とは質的に違うものを感じる。それはうまいヘタというのではない質的な相違で、非常に面白いことだ。最近彼は四輪車に目を向けているようで、AE86 などという僕らが大学生の頃に楽しんだ車が疾走する『頭文字(イニシャル) D』という漫画を描いている。余り読んでいないが、やはり少し違う。どうやら僕の感覚とシンクロする何かが含まれていないようだ。
映画を作る前に作家が描く絵コンテは、人によってそこに含まれる情報量にかなり差があるのだが、例えば宮崎駿の絵コンテは、空間感覚に満ち満ちたものが多く、彼の漫画は全くこの傾向を引き継いでいる。こちらは僕の感覚に呼びかけるものを感じる。
この空間感覚に満ちた表現が僕は好きだ。漫画でも、アニメーションでも、実写映画でも。『アリオン』は、僕にその満足を与えてくれた最初の作品だった。