Comic Review

リバース・エッジ

Also Known as:平坦な戦場とはどこにあるのか

作者:岡崎 京子


「死も暴力も愛もすべて等価な透明な<無>のなかで再生される。」

ポストモダン消費社会の爛熟ぶりのあとには、空虚なリアリティだけが残ったとすれば、ぼくたちはあらかじめ失われた現実を生きるしかない。80年代の代表作『ジオラマボーイ・パノラマガール』では軽快な明るさの後に閉塞感が強調された。しかし90年代の代表作となった本書は過敏に意識された構成によって、痛々しいまでの閉塞感が前提として提示されている。本のカバーも前者が原色を用いたポップな色使いなのに対して、本書はモノクロームで冷たいイメージを創出し、黒い帯びが「派手で軽薄な80年代」をあざ笑うかのごとく90年代的デカダンを象徴しているようだ。

この時代を生きるものにとってこれはえらく大変なことだけれども、望む望まざるを問わず、ぼくたちはとにかく生きなければならない。『ジオラマボーイ・パノラマガール』のラストでマンションからUFOが見えると言って話を遮るシーンがあるが、UFOが本当に見えたかどうかというのは、そんなことはどうでもよかったのだ。彼ら(彼女ら)にとってUFOは実際に目に見えるサンシャインビルや東京タワーとたいして変わりはなく、話のネタになりさえすればいい。見えそうなものをとにかく羅列する。そして問題は何が見えたかではなく、いかにドライに見えているか。あるいはシラケている自分たちを確認するか。それが80年代の気分だ。

一方、岡崎は『リバース・エッジ』のラストでもUFOを登場させる。それはUFOを呼ぶシーン・・・。「UFOは結局表れなかった」という記述に見られるように、UFOが表れないとわかっていても、「来なかったね」と互いを確認しあう、そんな些細なことで少しだけ幸せな気分に浸れるのである。たとえそれが幸せでなくとも、ペラペラ喋っているよりは気が紛れていい。そして何より重要な点は、UFOの話それだけでいいということ。必要なコトバ以外はとにかく削り落としてしまって、残された空白は沈黙で埋め尽してしまえばいいのだ。同じく若草ハルナが山田クンにゲイであることを告白された後、海の匂いと汽笛の音を確認しあう場面がある。その状況を満たすのは自分たちが互いに海をイメージしているということだけであって、実のところ、海が近いかどうかは全く関係がないのである。

ハルナの周囲には―友人、家族、教室の風景など、表面的には何の変哲もない日常が存在する。しかしなんとも言い様のない暗さと圧迫感が漂い、カタストロフィーの予感さえ感じさせるのはなぜだろう。岡崎の作品がタダのフィクションではないとして、「死も暴力も愛もすべて等価な透明な<無>のなかで再生される」世界が、いきなり90年代になって浮遊してきたかのように思われがちだが、それは錯覚である。それはもともとそこに存在していたのだ。消費に明け暮れた70〜80年代の記号のゲームが飽和状態に達し、今まで目立たなかった何かしらの抑圧が社会の表層に出てきているとしたら、それこそまさに、この作品で受け取ることのできる痛みや恐怖のことを指している。<欲望>という「得体の知れないもの」は時代や場所に関係なく誰しも持ち得るし、ヘンナヒトタチだって、いつの時代も、どこにでもいるではないか。そしてこのコトバも特定の場所と時代に生きる人たちに語りかけるメッセージではない。

平坦な戦場で僕らが生き延びること。

―ウィリアム・ギブソン

Report: 荒木タケノリ (1999.06.18)


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