東映動画お得意の古典的活劇。何故か長靴をはいている猫ペロが哀れな少年を王子にしようと大活躍する。
実はこれが僕の最も好きなアニメーション映画の一つなのだ、と言ったら笑われるだろうか。今から 30 年ほど昔の東映動画の子供向け劇場長編作品である。
しかし決してノスタルジーにひたっているわけじゃない事を、きっとこの映画を見たことのある人なら判ってくれるに違いないと僕は信じている。
確かにこの映画を初めて見たのは、それが一体いつだったのかはっきりしないくらい僕が子供のころだ。あの頃は東映動画は幾つもいい作品を出していた。毎年京都は四条大宮の東映の映画館で、毎年夏休みになると「東映子供まんが祭り」などと称して、楽しいアニメーション映画を連日掛けていた。今でもそういった企画で時々アニメーションを掛けているみたいだけど、果たしてそれを見に行っている子供たちが、10 年後、20年後に見返して楽しめる作品はあるのだろうか。僕にとっての『長靴をはいた猫』同様になるものが一つでもあることを願う。本当に大切なことだ。
製作スタッフには宮崎駿や大塚康夫、小田部羊一などが入っており、彼ら一流の急転直下的ストーリーテリングのうまさ、手を抜かない描写などなどはすでに完全に備わっている。(ところで脚本に井上ひさしの名前がある)
宮崎駿は気に入ったギャグシーンを繰り返し使う傾向があるが、『カリオストロの城』などでも使われていた「びよーん」と飛ぶジャンプなどが全くそのままこの作品で現れている。そもそも悪役の声がソックリだったりして、これらに限らず両作品の相似は枚挙に暇がない程だ。冒険活劇はこうでなくっちゃ!というわけだろうか。
細かな話は抜きにして、僕はとにかくラストシーンが好きだ。魔王を退治するために、朝日が出るその一瞬を今か今かと待ちながら逃げ続ける主人公と少女。それをしゃにむに追う悪役。何度も何度も絶体絶命の危機を乗り越えた二人も、もうこれでダメーっ!と塔から落ちていく、そこに朝日が。。ああ二人は朝日を浴びながら落ちて死んじゃうのねと思ったところで、飛び回る黒いコウモリ(カラス?)が真っ白なハトになって二人を受け止める、そのシーンだ。もちろんこれは冗談のようにありがちなドンデン返しなのだが、それでもこのシーンは実に美しく、初見の時から僕の心の中にずっと残り続けている。
思い出すだけでああ美しい。。。
この作品を久しぶりに劇場で見たとき、僕はいいアニメーションを作るために必要なものは、何よりもまず作り手の想像力なのだと再び痛感した。アニメーションに限界は無い。アニメーターがそれをイメージすることが出来さえすれば、それは現実になる。描きさえ出来れば、それは本物になる世界だ。
だからアニメーションは常に人間の想像力の限界に挑戦しているのだと思う。
僕は『眠れる森の美女』を見た時に感じたことと同じことを思った。つまり良いアニメーションを作るために必要なものは、この時既に揃っていたのだ。他にはもう何も要らないのだ。
特にここ数年では、これはアニメーションに限らず、すべての映画に共通しているのかも知れない。実写の場合は撮影できるかどうかという技術的限界があるが、現在ではコンピュータグラフィックスという新しいアニメーション技術によってその限界も飛び越えられようとしている。実写でもイメージできさえすれば、それが現実になるようになってきた。アニメーションと実写という境界がもはや無くなったと考えてもいい。
当時既に一級の娯楽作品として飛び抜けた品質を持っていたはずのディズニー作品を多く見たはずにも拘らず、そこにはヒトマネではない、全く彼らオリジナルのテイストが満ちている。オリジナルであることと、良い作品を作るために必要な想像力には、高い関連があるように思えてならない。
良い仕事をするエンジニアにも、同じように想像力が要求されていると思う。つまり僕らの技術の限界は僕らの想像力の限界に等しいのだ。技術屋は常に自身の想像力の限界に挑戦させられているというわけだ。