あるとき、あるところで恐ろしい道化師の伝説があった。風のように現れ、残虐な殺戮を繰り返すという道化師の話である。
僕にとっての記念すべき高橋葉介第一号作品である。偶然本屋の棚で単行本を見つけたのだ。その帯に書かれていた「右手に生首、左手に血刀(めてになまくび、ゆんでにちがたな)」という恐るべき冗句。派手ハデのカバーをめくって少し立ち読みしたところ、なかなか面白かったのでつい買ってしまった。いけない。
これがもとで、『仮面少年』などなど、古い作品を買いあさって読むはめになってしまい、『夢幻紳士 怪奇編』また出ないかななどと思うようになってしまった。さらにいけない。
第二編、ピエロは城の中で数名の老人たちが一人の少女を殺しながら犯している現場に突然現れ、ザクザクと彼らを叩き斬って逃走する。別の編では村人たちが皆殺しにされた血の池を見て、発狂したように城に飛び込む。筋書きから言って水戸黄門的な勧善徴悪ものだ。しかし実際には作者はそれ以上に切り刻み、血を流す。ピカレスクロマンと帯にはあるが、はたしてそうだろうか。水戸黄門的な善人ぶりに背筋が寒くなる人達にとって、単純にそうではなく、ある程度屈折すらしているヒーローがケダモノどもをバッタバッタと斬り倒す爽快感はあるだろう。しかしそれだけか?
高橋葉介の多くの作品には、破壊、血を流すことへのあこがれがある。
同族までも切り刻んで殺してやりたいと思うのは、ヒトという種族のどうしようもない欲望なのではないかと僕は考えているが、高橋葉介にはその臭いが、血の臭いがする。
『夢幻紳士 怪奇編』の、『半人形』で機械仕掛けの少女が引き裂け、『夜会』で女が自分の喉を掻き切る、それらのシーンを彼は執拗に、美しく描いている。壊れる快感、潰す快感、引き裂く快感、そして噴きだし、流れ落ちる血。彼はそれを追い求めているようだ。より美しく、より完全な破壊、美しい血へのあこがれ。
まるでストーリーはそのための舞台装置と考えているようだ。
彼の別の短篇に『血!』という小品があったように覚えている。日照り続きで渇いた人達が天をメスで突き、血の雨で潤うというイメージだ。そしてこの『クレイジー・ピエロ』でも、女将校が若い娘の生き血の雨を、その全身にたっぷりと浴びるシーンが登場する。
したたり落ちてくる血に善も悪もない。ただそこには美しさがあればいい。ピエロが悪人を斬り、薄幸の『腸詰め工場の少女』がガリガリとソーセージになるのは、そこに美しい血があるからなのだ。
彼はまた、ピエロの狂気と暴力を、普段は気の小さな少年の心に閉じ込められたものとして描いている。ピエロは他の人間たちの狂気と暴力に触れた時、自分の中のそれを解放してしまう。それは余りにも大きく、爆発となって周囲に血の雨を降らせる。苦しみからの狂気と暴力と血による解放。それが彼がこの作品の舞台装置として選んだ主題のように思う。
同族までも切り刻んで殺してやりたいという、どうしようもない暴力的な欲望が人間には内包されているのではないかと僕は考えているが、その、内に押し込まれた暴力の解放を、人間は渇望しているのではないか。誰かの狂気によって、自らの欲望を爆発させたいと願っているのではないか。
ただ僕はマゾヒズムを理解しないので、彼の本当の意図は良く判らない。ただその先鋭化された表現の切り口に惹かれている。