「作家主義? 何ですかそれ?」
ブライアン・デ・パルマと共に製作会議の席に着いたトム・クルーズがこのようにウソぶいて見せたかどうかは知る由もないが、この作品を観る限り、デ・パルマ君はこの若きプロデューサーにかなりガツン!と脳天を押さえ込まれたことだけは確かなようだし、結果、信じ難いことだが、これはこの監督がハリウッドで撮った〈最良の作品〉となってしまった。
そもそもハリウッドにおける作家とは何か?
作りたいものを自分の思うように作れる環境を作りだそうとしてる者たちの中でも選ばれし癖の強い監督?
スピルバーグ、コッポラ、スコセッシは言うに及ばず、ウォルター・ヒル、ジョン・カーペンター、ある時期のマイケル・チミノなど、昔ながらの有名どころではこんな感じか?
…それがどうした?
今では限りなく死語に近い〈作家主義〉を反芻したところで得るものなど何も無い。
〈作家主義〉などとは無縁の場所にいるキャメロンやゼメキス系統(最近のスピルバーグ君もこの種族の一員である)が現在の主流であり、いちばんお金が儲かるのだ。
ではなぜキャメロンやゼメキス系統を敢えて起用せず、ちょっと頭が変かも知れないデ・パルマ君を起用したのかな、クルーズ君。
トム「(咳払い)答は簡単さ。イ・パネマには昔っからの熱狂的なファンがついている。音楽や小説なんかでもそうだけどさ、一部の熱狂的なファンがいるって事は、要するにアクが強いって事、賛否両論真っ二つなんだよ。それが最大の魅力だったのさ。考えてもみなよ、とりあえずイ・パネマがどんな変なものを作ろうが、その熱狂的ファンたちっていうのを観客としてまず確保できる。次に、そのイ・パネマが全く新しい現代版「スパイ大作戦」に着手したとなると…えっ! デ・パルマ!? ブライアン・イ・パネマじゃないの? …ああそぉー、南米系にはどう転んでも見えなかったんでおかしいとは…でもさ、俺、クランクアップしてもうだいぶ経つけど、ずっと本人にはイ・パネマで通してたよ。昨日だって電話で話したんだぜ。(イ・パネマさんのお宅ですか?)って聞いたら、(はい、そうですが。)て言ってたぜ? アレ? じゃあ誰なんだよあれ?どうすんだよこれ。エッ?…まっ、いっかぁ、イ・パネマでもカ・ラパナでも何でもいいじゃん。映画は完成してヒットしたんだし、結果良ければ何とかって言うしさ。今はもう続編のことで頭がいっぱいなんだよ。監督のウーちゃん、拳銃持って放さないんだよまったくヤんなっちゃうよ。床に転がってブッ放すシーンのカット割りとアングルをスローモーションで実演しちゃうんだよどう思う? 見てらんないからそのシーン、シナリオにもなかったんでカットさせたけどさ、変な奴ばっかだよどいつもこいつも。(ヒッチコックやりたぁい。)って遠くから流し目送られる前作の時もそれ止めるのに相当苦労したけどさ、映画ってホント、人が思うほど割のいい商売じゃないよ。で、ブライアン、何だっけ?」
トム君の話を続けると多分こういうことになるのだと思う。
デ・パルマのファンの確保。
デ・パルマが「スパイ大作戦」を撮るというちょっぴりな意外性による、ちょっぴりな興味を引かれた反デ・パルマ派の確保。
無論、「スパイ大作戦」ファンの確保。
同じく、トム・クルーズ・ファンの確保。
エマニュエル・ベアール、ジャン・レノらを出演させて舞台を主にヨーロッパに置くことによる、欧州での観客の確保。
トム・クルーズ・プロデュースという前代未聞の事態によるスキャンダル・ファンの確保。
キリがないだろうからこの辺で。
まあ、こういう浅はかな計算で金が儲かるなら誰も苦労などしないはずだが、儲けるために環境をそれらしく整えておくのは、たとえ嫌味にとられようともハリウッドではやるべきなのかも知れない。
さて、最重要課題はその中身がどうなっているかである。
ここまでお膳立て完了の映画の中身が目も当てられない代物だというのがハリウッド映画の常識なのだが、今回はやや趣が異なっていた。
飽くまで計算高くあらねばならない、というハリウッドの基本理念を貫いたトム・クルーズのプロデュースぶりは大いに拍手でも花束でも贈ってやるべきだし、ケヴィン・コスナーとか名乗る男がこの作品を観たにも関わらず『ポストマン』とかいうのを作っちゃったと言うなら、合衆国政府は即刻このキチガイを精神病院へ永久入院させるべきであり、賠償金2000万ドルを大島渚の自宅へ送りつけ、命構わず無理矢理彼に一本撮らすぐらいのことはやって欲しいのである。
ラロ・シフリンのテーマ曲に乗せたタイトルバック。これがなかなか小気味良い。「スパイ大作戦」の風味を残しつつ、MTVのような味付けがされていて老若男女大喜び。偉いぞトム君。
大使館でのパーティーのシーン。デ・パルマ君を雇ったからには彼の必殺技も披露しなければ、と、エレベーター内外と潜入先の部屋をワンカットで収まるようにセットをこしらえる。ちょっと値は張ったけど、こればっかりは仕方ないさトム。
エミリオ・エステベスのあまりに早期の顔面串刺し状態。彼をここで殺してしまうことにより、ジョン・ヴォイトの死をも観客に納得させようとする贅沢なトリック。お金はこう使わなくっちゃ。
時折斜めに傾けられた画面がフィルム・ノワールっぽくて素敵。
まったく賞狙いには見えないという、悪魔のような謙虚さ。
上映時間100分前後にまとめた無駄のない運びと、それによって確保できる理想的な観客の回転率。
ヴァネッサ・レッドグレーブと初めて対面したトム君。セル画から飛び出てきたような彼の笑い顔が映画のcharacterと気持ち悪いほどマッチング。
続いてそのヴァネッサのアジトへCIAの奴らが乗り込んで来るシーン。ドアの前で銃を構えるCIA職員らを捉えてたカメラが後退すると、その一つ上の階の踊り場からも同じドアに向かって銃を構えてる男がいるという空間の利用術。
えーと、それから、
夜のプラハ、カフェでのシーン。無理矢理しつらえられたようなセッティングの是非はともかく、どデカい水槽にガム型爆弾を放り投げ付けた後のカット割りが如何にも絵コンテ通りに撮っただけだろうと予想させる弱さの是非さえともかく、その水槽から流れ出たピチャピチャ魚が跳ね踊る大量の水が、石畳を白い泡を含んだ波打ち際へと変貌させて走り去るトム君を追いかけるというアイデアは、元々シナリオに書かれていようが無かろうが、その後のフェードアウトのタイミングと共にデ・パルマ君らしからぬすこぶる映画的な一瞬であり、私も思わず「今日からファンになっちゃおかな。」と考えたほどだ。
それから、えーと…
そうそう、やっぱりメイン・ディッシュはラングレーのCIA本部潜入。
その前の列車内で、金庫室への進入がいかに困難かを本部の映像とのカットバックで見せて行くさりげない小気味良さも好感度を上げるのに貢献してたよトムちゃん。
『2001年宇宙の旅』。あろうことか金庫室のシーンはこの映画をベースに撮られているではないか。それもあからさまに。
無音状態に限りなく近づけること。
蛍光灯の白をベースにした画面作り。更に、床からのダウンライト。
ロープで吊り下げられてるにも関わらず、無重力を装うこと。
つまり、お客を呼べる環境を用意すること。トムちゃん、やるねぇ。
ディスカバリー内部の床上や天井で作業するボーマンとプールをワンショットで捉えた画面。あるいは、セントラルでハルの接続をボーマンがカットしてゆくあのシーン。これらを再現してみようという遊び心いっぱいの嫌味のない試みがここにはある。この嫌味のなさは、「デ・パルマがキューブリックを!?」という驚嘆に負うところが大だが、まあ、トム君に言われて仕方なく演出してみた結果が良質なものを生んだという言い方もできる。
〈結果良ければすべてよし。ついでに過去まで洗い流そう。〉
きっとイ・パネマさんには電話でこう言ったはずだ。間違いない。
ただ、メガネを垂れる汗の滴を遮った手の甲のショットを2度も続けて見せちゃダメさ、トム。これじゃあ一連のハリウッドモノと変わりないじゃん。ちょっと興醒めしちゃった。でもさ、ジャン・レノがナイフを落としちまうっていうのも、そのナイフがデスクに突き刺さるっていうアイデアも良かったよ。伏線の役目十分果たしてたし。でもさ、ってしつこいようだけど、あの数カットの長さは戴けないなぁ。あれじゃ『ダイ・ハード』と変わんないじゃん。ジャン・レノの情けなそうな顔は見応えあったけど。彼を出演させたっていうのはアレだよね、クリーガー役には観客の記憶に残る顔が欲しかったんだよね。伏線を張れる顔って言うのかな、そういうの。でもさ、彼、『グラン・ブルー』の時と比べると顔変わっちゃったね。もう普通だよ。大した映画じゃなかったけど、彼の顔だけはビックリしたもんね。
人間じゃなかったよあの頃。
それからさ、アジトに戻ってからの君とジャンのやりとり。手品見せてくれたよね。うれしかったよ、感激した。ひどい代物だったから思い出したくもないのはお互い様だけど、『カクテル』、マチャアキの隠し芸みたいなやつ、アレを連想しちゃった。俺、でも、マチャアキの隠し芸、結構好きだよ。トムはどう?
まっ、いっかぁ。あとさ、ロンドンの駅の構内からCIA本部に電話するところ。逆探の計算しながらブチッて切っちゃった途端、真横の電話ボックスの男がおもむろにこっち振り向いたらジョン・ヴォイトだった、っていうシーン。ゾクゾクってしちゃった。いいよねぇああいうの。あれ、図体も顔もでかいジョンだから良かったんだよね。リチャード・ハリスだったら迫力ないよきっと。
なんでいつの間に話し言葉になったんだろう…
まっ、兎にも角にも、長い螺旋階段を俯瞰ショットによって『めまい』のように撮ったり、空撮ロングショットだった疾走する列車へワンカットで至近距離まで近づいて行ったり、はたまた、ヘリコプターのプロペラを鋭利な刃物に見立ててトム君の喉仏へ突き立てたり、相も変わらずやることだけはきちんとやっちゃったデ・パルマ君。「まだ懲りないのか、このどアホ。」と言うことさえ既に空しい気がする昨今だが、不思議と今回に限りこの抵抗感が和らいでいる。それもこれもトム君のキビシィーい検閲システムのなせる技である。
お金を払って映画館で観た、という揺るぎない事実を生まれ変われるなら抹消してしまいたい『アンタッチャブル』だったと思う題名の映画と今回のを、まぁ、比較するまでもないかぁ。
でもやっぱり、乗り物酔いにはめっぽう強いさすがの私でも、あのクライマックス、オデッサの階段シーンではマジで嘔吐しそうになったのだから、5年後でも10年後でもいい、この手の代物には無条件で実刑判決を下すという法律を制定すべきである。死ぬかと思ったぜまったく。
今回の作品に話を戻そう。
欲を言えば、これはシナリオの問題だが、クライマックスの処理はガム型爆弾を使わない方が良かった。あれでは安直すぎる。ガムを使うにしても、それが失敗に終わり、その後、意表を突いた展開で主人公の勝利に終わるという風にすべきだった。
要求しだせばキリがない。小粋な部分もそれに負けじとあるのだからここは良しとしよう。
ヘリがトンネルに入り込んだ瞬間に飛び出る派手さを加減した火花も、主人公が変装マスクを完全に取り去るカットが、始まってすぐとクライマックス前の正確に2回だけだというのも、CIAの幹部が腕時計に映し出されたジョン・ヴォイトに向かって「おはよう、フェルプス君。」と語りかけるユーモアも、共に粋な計らいではある、が、…
…んー…
何でこの程度の作品をここまで持ち上げなきゃならないんだろう、というのが率直な思いだし、作品の出来としては確かにマシなのだが、普通なら何も考えずに素通りしてしまうのがオチな代物ではある。
だが、作品云々と言うよりも、あのデ・パルマを見事に飼い慣らしたトム・クルーズの存在がショッキングだったのだ。
〈人を見かけで判断してはならない〉この映画で私が学んだのはこの事をおいて他にない。
トム・クルーズには擁護するに足る未知の可能性がある。
がんばれモッ君、いやトム君。
今度はウッディ・アレンに挑戦しろ!
製作中の『MISSION IMPOSSIBLE 2』。監督は先述通りジョン・ウーらしい。
ちょっと悪い予感がする。