連続して起きる殺人事件。すべての事件の犯人はすぐに捕まり、本人も犯行を認めるが、皆犯行の動機がないという。そしてすべての事件の被害者は喉元を大きく X に切り裂かれていた。一連の事件を結び付ける、一人の男がみつかった。
主人公は役所広司演じる刑事であり、この男が怪奇な殺人事件を引き起こした記憶喪失の若い男の謎を解く、という流れでストーリーは進む。配役はなかなか良かったように思う。冒頭の展開も含めて良くできているなあと思うけれど、そんなことを越えてこの映画は良い。
実に困ったことに、僕は映画を見ている途中で何度も何度も期待してしまった。主人公がその妻を殺すところを、である。主人公の妻は精神を病んでいて、断片的に記憶を失う。主人公は妻の行動に怒りを感じるが、どうすることもできず自分を抑えている。劇中ではこの鬱屈と苛立ちが執拗に描かれる。
記憶喪失の男に暗示を掛けられ、殺人を起こす人たちは、すべて同質の鬱屈を抱えており、そこから解放されるために人を殺す。
そうするうちに、観客は、主人公の妻や記憶喪失の男に、主人公を含めた劇中の人たちと同質の苛立ちを感じ、彼らが殺されるシーンをワクワクしながら待つようになる。
だから最後に主人公が拳銃を抜いてパンパンと撃った時に、僕らはそれまでの鬱屈から解放されて、実に晴ればれとした気分になるのだ。
「ああ殺してよかった!」
駄目駄目駄目駄目、それは駄目なんじゃないか。人を殺してスカッとするのは人間のどうしようもない欲望なんじゃないかと僕はときどき思うけれど、アクション映画で悪者をやっつけるのとはわけが違う。静かな映画で罪もない人を殺して心底スカッ、じゃ駄目でしょう。
僕はスカッと晴ればれした気分の自分と、黒沢監督の罠に落ちちゃいけないと思いながら落ちていく自分の両方を感じていた。自分の中の恐るべき快感との対話。
劇中で殺人を犯す人は皆ストレスを抱えている。しかしそのような鬱屈は誰でも抱えている。それはもちろん見ているあなたたちも同じで、そこから解放されるために人殺しと言う一線を越えてしまうことだってあるんだよ、と言うのは簡単だ。しかしそれは観客にとっては劇中のナレーションであって我が身の現実ではない。黒沢監督は、ストレスを描く代わりにストレスの「もと」を描き、観客の中に苛立ちを生ぜしめる。観客は自身の中に物語と同質のストレスが生まれることを自覚させられた後、自らのストレスの隣に映るその一線に恐怖しろと、監督から言い渡される。ヒトゴロシの快感が我が身の現実になるのは恐い。
だからラストシーンのファミリーレストランでは、もはや誰が誰を刺すのか、そればかり楽しみにするようになる。ワクワクワクワク。。。
ところで僕は萩原聖人のマンション?にいた動物君たちが、誰の世話でずっと檻の中で生き続けていたのか、ちょっと疑問なんですけど、どなたか判りますか?