もしこれが5〜6年前に撮られ、尚も処女作だったなら、ヴェネチアへなど持って行かれずに済んだかも知れないし私の感想も違ったものになっていた筈なのだが、如何せん現実は、出品されるに留まらず金獅子賞まで獲得し、処女作と呼べてしまいそうな危うささえない北野の第7作目として、かなりの観客を動員する話題性だけは八方美人の如く振りまいてみせている。
「賞なんて所詮はこんなものさ。」と高を括ってみたくもなる金獅子賞受賞。
だが何故に審査員たちはこの映画へ最高の賞を授与したのだろうか?
他はほぼゴミのような代物ばかりだったのだろうか?
何もこの作品がゴミに近いと言ってるのではない。それどころか、仮に平均点や水準値というものがあるなら、それらを軽くかわして合格点に達してるかも知れず、『マルタイの女』 や 『東京日和』 へ足を向けるくらいなら、こっちを観る方が遙かに元を取れると断言できる。
だが、この物足りなさは何なんだろう?
北野の過去6作品をいっさい観ずに済ませておけば、この歯痒さが取り越し苦労に取って代わるのだろうか?
北野の過去6作品を審査員の誰もが知らなければ、果たして金獅子賞獲得は現実となっただろうか?
何かが私を騙そうとしている。
こんな事を言いながらも、私は2箇所で不覚にも涙してしまっている。
1.車で雪道を走る主人公とその妻。山中で尿意を催す妻のために車が停まり、彼女一人で深い雪藪 の中へと小走りに進み行くが、突然、雪で見えなかったのであろう窪みに足を取られて深みに落ちてしまい、気づいた主人公が急いでそこまで駆け寄り行く一連のシーン。
2.ラストシーン。主人公と横並びで海を眺める妻。
何と言えばいいのか、彼女のこれまでの“無表情の笑顔”とでも言っておくそれが、何カット目かにいきなり泣き顔に変貌してるではないか! そしてダメ押しがこの科白だ。
妻「ごめんね。…ありがとう。」
息もつかせずトドメの一発が続く。今の今までそんな素振りさえ見せなかった主人公が、妻の肩を引き寄せ、互いに傾け合った顔をくっつける、という絵に描いたような演出。
人に見られたら、瞬間諦めるしかないが、どうあってもこんな時鏡だけは絶対見たくない。それほどまでに泣きまくって館内の明るさに怯えていたなどと、黙ってりゃバレずに済んだことを告白しちまった俺ってヤケに愛おしいぜ北野、ヨォッ!
‘泣く’ことがイコール‘満足’とも限らない。
かつて 『E.T.』 という映画だか何だか知らないが、そんなのがあった。あの嫌みったらしい主人公だか何だか解らないクソガキと同じくらい、題名からしてこれもきっと主人公に違いないあの化け物の一挙手一投足が大っキライだ、と時折ふと感じつつ観ていたのだが、ラストのラストになって涙がボロボロ出てきてコマッタちゃん。
わが娘を抱いて空を見上げるあの母の顔に私は負けたのだ。
同時に、それまでギャーギャー騒いでた周りのクソガキどもが一瞬にしてすすり泣き始め、それを見たクソガキどものクソ親たちが鼻をすすり出すのを聞いたからって何で俺まで泣かにゃならんのかと時折ふと感じていたのだが、この時はエンドクレジットが長めで九死に一生を得た、と記憶している。
この時の涙と今回の涙は同質なのだろうか?
似ていなくもない、と今は考えている。
原因は少なくとも2つ。
久石譲の音楽と、北野の語り方だ。
北野がなぜ久石を使い続けるのか全く解せない。
彼の音楽の何を気に入ってるのだろうか。それともただ単に気が合うからなのだろうか。
仮に北野が本気で久石の音楽性を買っているなら、それは致命症になると断言しても良い。彼の映画はますますダメになってゆくだろう。久石と共に心を入れ替えない限り。
作品によってミュージシャンを換えるというのも一つの手だが、どうやらその気もなさそうだ。
『キッズ・リターン』 の久石はまだ聞けても、『あの夏、いちばん静かな海』 のそれは聞けたもんじゃない。あのバスのシークエンスとラストシーンで流される音楽はほとんど拷問に近い。バカ丸出しである。まさか笑いをとろうとしてやった結果ではあるまい。
こんな事を言い出すと、結局は各々の好みの問題へ帰着してしまうのだろう。
だったら言わせて貰う。「久石なんぞいらない。」と。
記憶違いでなければいいが、『魔女の宅急便』のクライマックス、ヒロインがホウキに跨って男の子を救出する瞬間まで、久石の音楽は一切挿入されていなかった。これはひとえに、音楽に対して自覚的だった宮崎の勝利である。
こんな事を言い出すと、結局は最終的に音楽へO.K.を出す北野の問題に帰着してしまい、事態は更に深刻さを増す。
だったら言わせて貰う。「音楽なんぞいらない。」と。
だがこうも行かない場合は、「次回作は試しに三枝成彰でやってみろ。」
『お引っ越し』、祭りのシーンでの彼の働きはすばらしいものだった。こっそり正規の料金を払って映画館に足を運んだ相米慎二が涙しても仕方がなかろう、レニー・ニーハウスばりの世界的レベルの旋律。
…私が言うほど久石の音楽はゲテモノじゃないのかも知れない。
ただどうにも引っかかるのが、あの“ものわかりの良さ”なのだ。
相手を人間以外、いや、人間だと思うからこそ凶暴に倒してゆく一連の主人公の行動とあの音楽との対照性がおもしろい? ミスマッチのようなマッチングが行動とは裏腹なその心の内を垣間見せてるだと!?
何をほざくこいつらは。まあもし対照性云々と言うのであっても、どのみちあの程度の音楽では力量不足の感を否めないが、そんなことより、そんなモノと遭遇してうれしがるために俺たちはわざわざ小屋へ向かって行くのか?
冗談じゃない。それじゃ適当に頭の良い映画学校の卒業制作を見せられてるのと変わりないじゃないか。
〈陽気な音楽を入れることにより、より一層そのシーンの悲壮感を増すことが出来る。〉(黒澤明)
アホか。
〈夏のシーンは冬に撮ることが望ましい。〉(黒澤明)
もうやめてくれほんま。
これをマジで受けとめて自身の作品で実践してしまった伊丹十三こそ悲壮感を増してしまったのだが、今はこんな話をしてる場合ではない。
とにかく、情報の収集や教科書的なセオリーの確認をしに映画を見に行くことほど人を食った話はない。
それなら映画など必要ない。
それから、人間長生きするとろくでもないことになる。
リアリズムではない“単なるリアル”を欲して止まない自身の人生が“映画”を希求しているのではないのか。
と、ここまで糞味噌に書いておきながら、実は…、と白状せねばならない。
久石の音楽が鳴っていなければ、私は例の2箇所で泣いていなかったであろう、と。
何という不届き者! と私さえ思わず声を出しそうになったが、グッと堪えましょう。
つまり、私はあの映画であんな泣き方だけはしたくなかったのだ。
北野は今回の作品で、『その男、凶暴につき』 や 『ソナチネ 』 と、『あの夏、いちばん静かな海』 を融合させようと試みたのだろうか。
一見するとそのような肌触りはある。
もしそうなら、事は彼の意図通りに運んだのだろうか?
それより、こんな融合に何か意味があるのだろうか?
良く言えば、イーストウッドのように“反復”の時期に差し掛かっているとも言えるが、…7作目で?まさか!
悪く言うなら、鈴木清順のような自家撞着に陥っているとも取れる。
そこにシナリオがあろうとなかろうと、その内容を自分一人の手で押し進めてゆく手法にさすがに限界が来たのか?
ただ、ここまで疑問点を並べつつも、あの日 『タイタニック』 ではなくこの映画へ足を向けたことを、私は心から仏様に感謝してるのだが…
やっぱり、何かが違う。
夜の港で白竜が売人をナイフで一突きする俯瞰ショット。 この『その男、凶暴につき』 での編集と音の競演をテレビの予告編で初めて目にした時に感じた何かが違う感じとは明らかに違う何かが違う感じであり、この両者の相違は笑ってしまうほどに好対照かも知れないという危惧。
今飛び出たばかりの血しぶきと、もう一方は凝り固まっちまった血痕。
思考を促す意志と、要領あるいは段取りの会得。
若さと、老い。
あるいは言ってしまうなら、生と、死。
やり慣れた作業をする際、思考しようとする意志を押しのけて身体の必要部分が先に動いてしまっているというあの感覚。
何も初心に返れとは言っていない。それどころか、初心に返ろうと試みてただのボケ老人になった黒澤明を反面教師と見立てるべきである。
“思考”するのだ。もっともっと、もっとだ。
ひらめきや発見を“思考”と呼んではならない。それらは単に素材と考えるべきだ。
“思考”とは、血の出るようなComplex である。
映画の中盤近くまで一切登場しなかったビートたけしが、ヤクザらを正面から捉えるそのリバースショットで突拍子もなく現れた 『3−4X10月 』。
『ソナチネ』 のエレベーターでの銃撃戦でも構わない。何年か後に、同じようなことを 『ダイ・ハード3』 で辣腕プロデューサーの雇われディレクターが試みることとなり、この部分に限りそれほど悪くもないのだが、“思考”という点から見て、どちらを取るべきかは明白である。
『あの夏、いちばん静かな海』 でのサーフィン大会。そして忘れてならないのが、本当に小さく小さくチョコッと坐って主人公の波乗りをじっと見ている女の子からギリギリまで距離を置いた画面。
あるいは 『キッズ・リターン』 の自転車の働きと、それに乗る主人公二人の顔の選択。そして、あまりに不意を突かれたために口半開き状態になっちまった、ママチャリに乗ったふつうのおっさんヒットマンの登場。
些細な箇所まで目を向ければキリがなさそうなので、さて、今回の北野はと言うと、
「それなりに楽しめた。」これ以上でも以下でもない。
主人公がいきなり上着を脱いでそれを片腕に巻き、ナイフ片手に逆襲をかけようとするつなぎ作業服の兄ちゃんに立ち向かおうと、バーのカウンターで主人公がいきなり相手の片目を串刺しにしようと、湖岸の石ころを入れた布きれで主人公がいきなり男二人を血塗れにしようと、それなりには変わりはなく、北野の映画製作への自信と巧さが際立つのみだ。
巧さとは、誉め言葉などでは決してなく、観る側からすれば、苛立たしさと換言できたりもする危険な用語である。私にとってその最適な例が 『Shall we ダンス ?』 に他ならないが、巧くなればなるほど映画からは見放されゆく周防正行の場合とも今回は少し異なる。
これ見よがしに行われる時間飛躍と時空交錯はいささか鼻につくし、何度も何度も挿入される絵画のインパクトも最終的にはそれなりに落ち着いてしまい、殉職した同僚の妻の話を喫茶店でひたすら黙って聞いているサングラスを取ろうとしない主人公の姿は、高倉健に匹敵する滑稽さである。
一体この映画にいいところはないのか。
そんなことはない。思いつく1箇所を除けば、いいとこだらけである。ただ、それなりに、と付け加えねばならないが。
その思いつく1箇所とは、冒頭、車中で同僚とお互いの妻の話をするシーン。この科白のやりとりはいったい何なのだ。まるで初めてシナリオなるものを書き、その第一稿をそのまま映像化したようなやり場のないちぐはぐさ。それによって共演者の挙動も何とか辻褄を合わせようと苦心してるのが微笑ましく初々しいと言えばこちらまでその罠に引っかかってしまいそうだが、こんなものを見聞きするために近くはない小屋へわざわざ足を運んでるわけでも、1800円なる正規の料金をバカ正直に支払ってるわけでもないのだバカにするな北野!
黒澤明ならともかく、誰かが言ってやるべきなのだ。彼は‘殿’でも何でもない、現場では単なる映画監督なのだから。
話を戻そう。
それなりにいい、というのは、悪い、というのではない故、いっそう厄介である。
エイズや癌や白血病と宣告されるのではなく、糖尿病だと言われてるようなものだ。
北野の意匠は一作ずつ巧みさが顕著になってきてる。
巧みさが徒とならずに済んだ 『キッズ・リターン』 は幸福な作品だが、今回は不幸にさえなっていない。それが問題なのだ。
巧みさは作品を小さくする。
あらかじめ計画済みだとはいえ、先述した編集による時間の飛躍も堂に入ったものだし、タランティーノのように仰々しくはない時空交錯も、展開を読めなくしてしまうことに一役買っている、のだろう…
『パルプ・フィクション』の方が大きく感じるのはなぜなんだろう。
画のつなぎと音の挿入。インパクトが狙いだというなら、もうそれは誰が観聞きしても成功している。“潔癖”という絶対性さえ持ち合わせていればブレッソンにさえ切迫していると言ってよい。
…だがなぜ、 『ラルジャン』の方が遙かに大きく神経を揺すぶるのだろう。
何の因果か、今私はSt.GIGAを聞きつつこれを書いてるのだが、女性ナレーターが「1月?日リリース、『HANA-BI』サウンド・トラック、アーティスト、久石譲…」などとぬかし出した。この出来過ぎの偶然に素直に従い、スイッチを切らずに置くべきか否か。
まあ、あまり気にせず先へ進もう。
黒沢清が自著の中で、北野映画についてのエッセイを掲載しており、短文ながら実に的を得た指摘に続き、その最終行にこう記されている。
「性格とはつまり才能のことである。」
おもしろくないこともないが堂々巡りで退屈な阿部嘉昭の『北野武 VS ビートたけし』なる一冊はこの一言でどこかへぶっ飛んでしまう。
つまり、北野の作品は極めてパラノイックなのだ。相対的にレベルが高い、と言い直してもよい。
意匠における緊張をはらんだレベルの高さが“単なるリアル”を誘発する結果となっていた。
今回は意匠のみが際立つ結果になってしまった。
何もかも詰め込もうと欲張りすぎたのか?それとも、…
おそらくこれは彼の人生に関わる問題であり、私などがそれを知る術など持ちようがないが、どちらにせよ、映画にとって危険であることに変わりはない。
危険であること。その最たるものは、‘お笑い’という逃げ道を自らこしらえてしまっている点である。
だが逃げ道があるからこそ一連の作品が生まれたのも事実である。
北野よ、言っておこう。
「いまさら逃げ道など無い。」と。
彼の映画に触発された形で、何人かのエピゴーネンとも呼べそうな作家が出現し、彼が出現する以前からの作家も転向を余儀なくされたように伺える。
石井隆、原田真人、青山真治、ある部分での長崎俊一、…
スタイルこそ違え、“単なるリアル”へ一歩でも近づこうとする志は同じ筈だ。
スイッチを切ってないので、さっきから 『HANA-BI』 のサントラが流れっぱなしなのだが、つい今しがた聞こえたメロディーラインが 『あの夏、いちばん静かな海』 のメインテーマと同じであったことが気になる。
北野はやはり融合を、いや、そうではなく、ケジメをつけようとしたのか?
一つ提案がある。
他人の書いたシナリオでもう一度一本作ってはどうか、ということ。シナリオは下らなければ下らないほどおもしろくなりそうだ。想像しただけでゾクゾクする。
脚本黒澤明 , フランシス・F・コッポラ & ミケランジェロ・アントニオーニ
主題歌荒井由美「天気雨」
『地獄で待つ』
映画内の数々のシチュエーションがラストの一言の科白に結集して涙を誘うという図式。
この単一的リズムはパラノイア特有のものであり、同時にニヒリズムへの落とし穴である。
芥川龍之介に勝るとも劣らぬほど最終段階での保身術に長けているのがパラノイアの正体だ。
破壊はしても、破綻はしない。
“映画”はそれを見落としはしない。
ようやく“映画”が北野武から離脱しようとしてるのかも知れない。