Cinema Essay

泣いてなんかいない


リメイク版『座頭市』のクライマックス、勝 新太郎の実の息子がその父自身の手によって斬られ死ぬその一瞬。

同じくクライマックス、暴れるホウキを両手にしっかり握って跨り、その顔が見る見るうちに楳図かずおのキャラクターのように変貌するや、「飛べ!」と口から漏らした『魔女の宅急便』のヒロイン。

女の眼前に突然現れたフランケンシュタイン。一言のセリフさえないまま、いつしか彼の車は信号待ちで夫の運転する女の乗ったそれの前で停車する。あざとさと紙一重の呼吸で、彼はバックミラーにアクセサリーをぶら下げて見せる。女はドアノブに手をかける。が、様々な想いがその手を逡巡させる。
フランケンシュタインとして再生させられたいかりや長介と、与えられた餌を食べ過ぎることによってちょっぴ太って見せた雀顔の女との、『マディソン群の橋』での数日間。

いかりや長介はRe-Birthする。
彼はこれ以前にも様々な場所と時間に、その時代のニーズに合ったスタイルで現前しているらしい。
何よりもカウボーイ・ハットがお気に入り、と同時に、性的にもかなりな倒錯趣味を披露する彼は、彼女に「Who are you,realy?」と言わせてみせ、生者を装いつつ、その晩をともに過ごす。
その時、音楽は最高のレクイエムとなり、カメラは、これ以上望めないほどの被写界深度と微妙なザラつき感を獲得することになる。
これを見たキューブリックは、きっと傑作『バリー・リンドン』の撮り直しを考えたことだろう。
白馬に跨って道の悪い山中へ消え行く彼のことを、人々は『ペイル・ライダー』と呼ぶ。

おそらくそのカウボーイ・ハット最後の姿が、アカデミー作品賞受賞という、うれしくもおかしくもない形となって何年か前に帰ってくる。
何もかもがドンとセルジオに捧げられることによって、それは神聖化の一途をたどり、「観た」などと軽々しく口にしてはならぬ映画の一つとなる。
許されざる者』とは、アカデミー賞協会委員たちのことを指す。

アカデミー作品賞などとは無縁な『バットマン・リターンズ』で、ペンギン男が手にしたのは、機関銃などではなく、ただのワンタッチ・アンブレラだった。

ペンギン男はクリスマスに死に、小津安二郎は自身のバースデイに命を絶つ。
自宅の二階。父からようやく彼との結婚の承諾を得た娘と、彼女の母親。母は、一階で未だ憮然とした態度を装う父の本当の心情を娘に語って聞かせる。娘は思わず両手で顔を覆って泣き崩れる。
この時、コンマ1秒の誤差もなく、今まで小さく流れていた音楽の様相が一変する。「よかった。本当によかった。」とまだ言っている母を尻目に、このどぎついアグファ・カラー作品『彼岸花』に心から感謝する。

どぎつさ、と言えば『シェルブールの雨傘』。

コンマ1秒の誤差もない、と言えば『ヒッチャー』のルトガー・ハウアー。ヘリの追撃から荒野を逃げ回る主人公の車と、いつの間にか並行して走ってる彼の4WD。お互いが保つ距離感とそのタイミング。あの表情と銃の持ち方はアニメ『コブラ』そのものだった。

かつては国で道化師だったドイツ人は、今はニューヨークでタクシーの運ちゃん。
今さっき、黒人の男女をブルックリンで降ろしたところだ。男から帰り道を聞いたところなのだが、どうも何を言ってるのやらよくわからなかった。どうやら道に迷ったらしい、と感じ始め、道化師の時の紙笛を吹くのもやめ、緩慢にしか動かないそこら中の人間たちを感じながら、画面がフェード・アウトしていく、『ナイト・オン・ザ・プラネット』。

あるいは、夜が明ける前の音の明暗。
『レネットとミラベル 四つの冒険』第一話の女の子二人は、音を見、画面を聞くように、と示唆する。

ダラダラやってんじゃねえよ! と、『現金に体を張れ』のラストシーンが痛いところを突いてくる。

反省もなくダラダラ書くなら、
『マジック・ボーイ』のラスト、こちらへ向かってスローモーションみたいに歩いてくる少年の全身像。

『動くな、死ね、甦れ!』の何もかもすべて。

ロバート・ミッチャムの爬虫類顔 in 『さらば愛しき女よ』。

セーラー服姿の富田 靖子が尾見 としのりと共に渡船に乗り込む『さびしんぼ』のワンシーン。
大林 宣彦は映画監督だった、と初めて気づかされた。
これ以後、彼は映画を撮っていないらしい。

葉巻をくわえながら、シド・チャリシーの驚くべきダンスシーンを見てるのか、それとも実は頭ん中空っぽ状態なのか、答えろゴダール。
『映画史』は、デ・ジャ・ヴュだ。

Report: 武縄 広之 (1998.04.03)


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