Cinema Review

M バタフライ:逆転劇とその証明

Also Known as:M Butterfly

監督:デビッド・クローネンバーグ
出演:ジェレミー・アイアンズジョン・ローン


終幕近く、ルネガリマールは蝶々夫人に扮して自害する。
オペラ『蝶々夫人』の見せ場がマダムバタフライの自害であるとするならば、映画『M バタフライ』における見せ場も「マダムバタフライ」役のルネガリマールの自害で締め括られる事になるのである。しかし、オペラ『蝶々夫人』の結末をとりながらも、自分達の想像を遥かに超えた結末にスペクテーターはがくぜんとする。「ソンリリン=マダムバタフライ」という固定された既成概念を持っているスペクテーターはここで見事に裏切られ「ルネガリマール=ピンカートン」という図式化された先入観を嫌がおうにも捨てざるを得ない状況にまで追いやられるのである。

オペラ『蝶々夫人』をデフォルメしつつも全く逆の展開を見せ、今まで持っていた先入観によるキャラクターに対するイメージが見事に覆されるこの茶番劇は同時にオペラ『蝶々夫人』にみられるステレオタイプの蝶々夫人像(つまり西洋人が東洋人を男性が女性を支配する二重の支配/被支配関係を示す。)をも完全に崩壊させる。
180度の反転の重要性がここに表れれてくるのである。

しかし、ここで私が重要視したいのは、このルネガリマールの逆転劇が余りにも明白で目立ち過ぎるが故に「ソンリリン=ピンカートン」という図式が「ルネガリマール=マダムバタフライ」のシンメトリーとしてしか語られない点である。茶番劇の終演(つまりルネの終鴛)ルネガリマール自身の口から語られる名台詞 " My name is Rune Gallimard ,also known as Madame Butterfly "は「マダムバタフライは実はソンリリンではなくルネガリマールその帳本人なのだ」と追い打ちをかけるように強調され語られるものであった。

(オペラ『蝶々夫人』のストーリーを知らない人にも完全に理解できる様に仕組まれたセリフだとは思うが、ここまでするとちょっと厭味に聞こえてしまうので、その手前で止めておくべきだったと私は思うのだが…)

暗にそれを示すのではなく明瞭に示してしまったが故に、しかもルネガリマールの女装芝居が衝撃的映像であったばかりにルネガリマール自身の逆転劇が派手になり過ぎたのである。この明白な逆転劇を見ている限りでは「ルネガリマールはマダムバタフライであり、ピンカートンではなかったのだ。」との見解だけが目立ってしまい「ソンリリンはピンカートンだった。」という見解が消えてしまうのである。「ルネガリマール=マダムバタフライ」「ソンリリン=ピンカートン」という図式が成り立ってこそ、逆転劇は成立するのだが、これでは「ルネガリマール=マダムバタフライ」というルネガリマールの逆転劇のみが成立し「ソンリリン=ピンカートン」というソンリリン自身の逆転劇が証明しそこねるのである。そこで、ソンリリン自身の逆転劇について一体どう証明すればいいのかという一つの問題が提起される。

では、これからその実に表面化されにくい「ソンリリン=ピンカートン」という図式について解明していこうと思う。

「ソンリリン=ピンカートン」という図式が証明しにくいのは、ソン自身の心理描写が単純なものではなく非常に複雑化されたものだからである。オープニングシーンのセリフからも分かるように、ソンはオペラ『蝶々夫人』に対する偽善性を白人であるルネガリマールに向かって告発すると同時に同じ東洋人である日本人に対して糾弾している一癖も二癖もある人物である。(ここでは無論、グローバルに東洋人という立場にたって「西洋人」を非難しながらも、中国人という立場にたって「日本人」を糾弾している。)そして、物語の中盤になるにつれその裏表の激しさ、二面性は明らかになってくる。スパイである事まで分からずとも、敏感なスペクテーターなら彼女が二つの顔を持つ女で、幻想的美学の餌食になってしまったルネガリマールを逆手にいいように操っている事がその微妙で不審な行動(同胞に子供を調達させたりといった行動)によって薄々気付くわけである。

しかし、物語が終りに近付くにつれソンの心理描写が益々複雑化する為にスペクテーター自身も彼女の精神状態が掴めなくなってくる。ルネガリマールをだます為の行動なのか、本当にルネガリマールを愛してしまったのか分からないそのソンの行動にスペクテーターはいいように振り回され、奔弄されてしまう訳である。

そして、衝撃の法廷シーン。ルネガリマール及びスペクテーターはソンが「男」でありなおかつ「スパイ」であった事に驚く。(しかし、このシーンを取り上げどうこう言うのは野暮というもので、別段重要なシーンではない様に私には思える。)その時の二人のかたくなな表情からはどういった心情が生まれているのか掴む事はできない。ルネガリマールの顔に衝撃が走っている事は一目瞭然だが(呆然自失という言葉がよく似合う。)ソンリリンは実に淡々とした無表情な顔つきなので、その顔から心情を読みとろうとするのは困難である。しかも「ざまあみろ」といった心境なのかと思うと、そうでもない事が護送車に乗るシーンで明らかになる。そう、私には法廷シーンより護送車内のシーンの方が遥かに重要かつ重大な場面に思えるのである。

(※このシーンについては私の友人が別に詳しく述べているので御覧下さい。[編集部注 : 現在寄稿依頼中です] )

護送車内でソンリリンは一瞬サディスティックな気分に駆られ、だまされたルネガリマールを嘲笑する。根本的にはステレオタイプな西洋人の東洋女への支配像を嫌悪していたからである。しかし『蝶々夫人』の前例を繰り返さなかった事が大きな打撃であった。ソンはルネガリマールを憎めなくなったのである。憎めないどころか逆に愛してしまったのである。

これは壮大なるパラドックスである。嫌悪しなければならないはずのルネガリマールをソンは愛してしまったのである。そして今まで持っていた彼自身のステレオタイプな『蝶々夫人』像をすてさらなければならなくなったのである。『蝶々夫人』の裏返しとして、西洋人の偽善性を告発し、報復しようとした作戦が失敗したのである。まさにミイラとりがミイラになってしまった状態、彼は完全に負けてしまったのである。

ソンは護送車内で裸身をさらし愛を請う。しかし、ルネガリマールは「自分がイメージしていた東洋の幻想的美学上に成り立つ女性」を愛していたのだと告白する。これではオペラ『蝶々夫人』と同じ展開になるではないか?ここで、ソンは見事にルネガリマールに裏切られるのである。ルネガリマールがソンリリンに裏切られるのと同様にソンも又ルネガリマールに裏切られる訳である。ここで、男同士の裏切り合いが始まる。それは痛く切ないものでもあり、両方が犠牲になるものでもあった。しかし、そこで一つの疑問が起き上がる。ソンはやはり「マダムバタフライ」なのではないか?という疑問である。

この辺りになってくるとスペクテーターはついてこれなくなる。ソンが一体「バタフライ」なのか「ピンカートン」なのか分からなくなるからである。確かにこの場面までのスペクテーターの印象としてはルネ=ピンカートンというイメージが強い。そしてソン=バタフライというイメージがやはり強いのである。これではオペラ『蝶々夫人』を繰り返してしまう。

しかし(友人が前途に述べたように)一つの舞台の上にバタフライは二人はいらないのである。何度も立場的に反転しながら最後はきっちりとした逆転劇がなりたつのである。

ルネガリマールの逆転劇は前途に述べたが、ソンリリンの逆転劇は余り派手ではない為、分かりにくいものである。しかし、ルネガリマールの逆転劇がオペラ『蝶々夫人』を奇麗に模倣されたもので証明されるなら、ソンリリンの逆転劇も又、オペラ『蝶々夫人』を奇麗に模倣されたものにより証明されるのである。

ソンのラストシーンに注目してみるとそれは明らかになってくる。ソンはルネガリマールの自害を知らぬまま、中華航空機にのって祖国、中国へと帰るのである。(多分、強制送還されたのだろう。)そしてオペラ『蝶々夫人』におけるピンカートンも又蝶々夫人の自害を知らぬまま船にのって祖国、アメリカへと帰るのである。中国からフランスへそして中国へと向かうソン。そしてアメリカから長崎へそして祖国アメリカへ向かうピンカートン。ここにはシンメトリカルな図式ができあがるのである。

「ソンリリン=ピンカートン」という証明が成り立って始めて逆転劇が成立するならば、「ルネガリマール=マダムバタフライ」「ソンリリン=ピンカートン」という図式がここで見事に証明される訳である。

Report: Yuko Ohshima (1998.04.02)


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