刑務所内でルネガリマール自ら『蝶々夫人』に扮し、首をかききって自害するクライマックスが実に印象的だった。その行為がもたらす意味を考えるとずしんと重く深い愛が色濃く浮かび上がる。この物語におけるメインテーマはそのラストシーン一点に集約されているのではないだろうか?
『蝶々夫人』を演じきる事、それは身を持って東洋の美学を受け入れる事であり、東洋の美学を本当の意味で知る事である。東洋の美学を知る事がソンリリンへの直接的な愛の行為とするならば彼の愛は『蝶々夫人』の死をもって成就した事になるし、仮に女性ではなく男性だったという事実やスパイだったという事実が露見した事でソンへの愛着が薄れてしまったとしてもルネガリマールの心には「東洋的美学」とソンが奥底にまで浸透していた事がわかる。「東洋的美学」とソンが分離してしまったとはいえ、ルネガリマールの精神には倒錯した幻想的東洋美学が残ってしまった訳だ。それは悲劇と言ってよいかもしれない。何故ならそれは倒錯した東洋の美学にすぎないからである。
オペラ『マダムバタフライ』における最大の見せ場はやはり何と言っても蝶々夫人の自害であろう。「恥を知って生きるよりは死んだ方がまし」現代では考えられない事だが、江戸時代、明治時代頃まではこういう思想が確かに日本人の美徳として根付いていた。私には倒錯した幻想的美学としか考えられないのだが、それは西洋人にしてみればミステリアスな東洋の美の一つの形として映っていたのかも知れない。
恥を知って生きるより死を選択してしまったルネガリマールは倒錯した東洋の美学による犠牲者であり、ソンリリンの餌食になってしまった崇高なる愛の殉教者と言えるのではないだろうか?確かにルネガリマールはオペラ『マダムバタフライ』に登場するピンカートンの様にソンリリンに対し、慎み深く純情で自分を慕ってくれる東洋人女性の理想像を描いていた。それは西洋人にとって実に都合の良いもので、男性が支配し征服欲を満たせる女性像でもあり、そこにはずるさも感じられた。しかし、ソンリリンと出会い付き合うにつれて変化してゆく。時にはピンカートン的な心情を持ちつつもルネガリマール自身『マダムバタフライ』のオペラを見ているだけにピンカートンにはなりたくなかったのだろう。同族嫌悪に近い気持ちが生まれ、政治的な仕事面にまでえ影響が及んでしまう。フランス側の考えに反論し中国を容認しているところからもソンリリンの影響力の大きさを感じずにはいられない。ルネガリマールにとってソンリリンはファムファタール的存在だったのだろう。彼の人生は「運命の女」の出現によって狂ってしまう。連れてきた子を我が子だと信じ、妻を捨てソンに走ってしまう。そして事情はどうあれソンリリンが中国側のスパイだったという許し難い事実によって彼は完全に餌食となってしまった。全ては愛ゆえの悲劇である。ラストに演じた蝶々夫人の女装芝居は言うまでもなく彼の精神が完全に『蝶々夫人』化してしまった心の現れであり、それを明確に示した図だろう。彼は自分がピンカートンではなく信じていた愛を裏切られた蝶々夫人だった事に遅まきながら気付いたのである。