Cinema Review

もののけ姫

監督:宮崎 駿
声:石田 ゆり子、松田 洋治、美輪 明宏、森繁 久彌、田中 裕子、上條 恒彦、小林 薫、島本 須美、森 光子
音楽:久石 譲

古代、まだ鉄が貴重だった頃の人々が自然と共に、また闘いながら生きる姿を、日本の原風景的背景に描く。

宮崎駿は不思議な作家だ。漫画版の『風の谷のナウシカ』であれほど遠いゴールへの到達と、そこに至るまでの高いテンションを示しておきながら、似た主題を追っているこの作品では、むしろ散漫さを感じる。
主題や単一のゴールは見えづらく、収束するべき行き場を持たない登場人物からは共感を得にくい。どうしてこのような形式を取ったのだろうか。

宮崎駿が手がけた作品は、なべて完成度が高い。それぞれの物語の中で、多くのものがうまく収まってくれる。たとえ収まり切らなくても、スピード感、高揚感が忘れさせてくれる。そこから来る強い共感は多くの人に受け入れられていると思う。子供に受けが良いのは当然としても、主題は複雑だがストーリーテリング的要素は希薄と言う最近の傾向に慣らされている若者世代にさえ受け入れられている。この世代がその真っ直ぐさに対して感じがちな気恥ずかしさを越えて宮崎駿映画を評価したのは素晴らしい。

ところで『もののけ姫』の名前を僕が最初に聞いたのはもう何年も前だったと思う。漫画版『ナウシカ』が映画版のそれより遥かな高みを、しかし苦しみながら飛び続けていた頃だ。宮崎駿は「ナウシカ以外にも暖めている企画がある。(ナウシカより)更に地味で、とても今、商業映画としてやって行けるものではない。また細々と漫画などの形式で実現していくことになるだろう」と言っていた。その作品の仮のタイトルが『もののけ姫』だったと憶えている。
それほど長く自分の中で暖めて、満を持して臨んだとも言えそうなこの作品が、しかしテンションを維持しきれなかったのは不思議だ。

巷にはいろいろな評があるが、いま僕は、単純に宮崎駿は『もののけ姫』を映画としてまとめそこなったのでは無いかと思っている。映画版の『ナウシカ』がそうだったからだ。しかし映画版『ナウシカ』は異常とも言える高い評価を得た。僕はそれが不思議で、むしろ完成度では『天空の城ラピュタ』の方が高いと思っていた。『もののけ姫』も非常に高い評価を受けているようだ。興行成績も信じられないくらいに良い。
ナウシカ』は映画では完成せず、作家はその作品世界を数年後に漫画として完成させた。『もののけ姫』もそのような道を歩むのではないかと思う。それはそれで悪い事では無いのだが。

少し考え過ぎな話が続いてしまったので、いつもの僕に戻るとしよう。

登場人物に対する感情移入、一体化ということが、この作品ではかなり難しかった。僕は映画を見るときにそういった点を重視しないのだが、そんな僕ですら人物やストーリーから遊離していると感じながら見た。それと対照的に背景として描かれていた自然そのものに引き込まれた。
多くのスタッフと共に、事前に屋久島へロケーションに行ったらしい。(屋久島と言えば『MISTY』がそうだ。)その多数の美術スタッフによって丁寧に描かれた背景は美しく、僕を何度も物語の舞台中央へと誘う。森の視点から物語を眺めた。
登場人物の誰にも感情移入の行き場を得られなかった代わりに、僕はそこに居場所を得た。まるで森林浴映画だ。

大学生の頃、僕は山の中に居ることが多かった。別に山小屋で生活するわけでも無いし、登山趣味もない。ただ住んでいた場所が美しい京都の北山のすぐそばだったのと、単車に乗っていたせいで、暑くなるとすぐ涼しい山の川に逃げ込んだ。日によって少しづつ違う場所に行くのだが、何時間も川を眺めて過ごした。
特に何かをしたわけではない。せいぜい雪が融ければ釣りに行き、桜の花の散るのを見、蛍を捜す程度だ。それぞれの季節のなかで移り変わるものを何年も繰り返し眺めた。ただ風の音を聞き、川の流れを見て、そこに棲むいきものを感じながら過ごした。

映画の中で描かれる森では、まだヒトと動物が互いにせめぎあって暮らしている。木には魂が宿り、動物には声がある。ヒトは他の動物と同じように、森と闘いながら過ごしている。そして自分達の利益を求めるために、遂に森の神を殺してしまう。
後には魂の無い木、声の無い動物と、闘う必要の無くなったヒトが残った。平和で穏やかで、もはや荒ぶる神は居ない。

僕が何年も通い続けた、あの森はそうして出来たんだろう。あの山には殺気が無かった。

Report: Yutaka Yasuda (1997.10.06)


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