丸尾末広の短篇集。漫画6編、文章1編からなる。
『パラノイア・スター』は彼の短編集の中では、最もシリアスな内容の作品集である。大抵、丸尾末広の作品にはある種の笑いが含まれているのだが、それを感じさせてくれるのはこの中においては『日本人の惑星』という作品くらいである。そういった点でこの作品集は、丸尾末広的世界の一つの極を表現しているユニークなものだと思われる。
収録作品のほぼすべてを支配するのは、「ノイズ」であると私は感じた。
それは、いわゆる騒音としての「ノイズ」とは少し聞こえ方が違う。人の笑い声が気になるときに聞こえてくる、頭の中できりきりと音を立てて私達に確実な偏頭痛を与えてくれるあの「ノイズ」である。この「ノイズ」と騒音としての「ノイズ」は、この作品群の中においてシンクロ表現されている。意味としては、同一だからであろう。『電気蟻<吾が分列の華咲く時>』では特に顕著である。
「ノイズ」とは、ある主体の求めているものとは異なる外的刺激の事を指していると私は考える。当然音にはこだわらない。ビジュアルであってもよいし、文章であっても、教育であってもその主体が求めていなければ、それは「ノイズ」として認められる。赤ん坊の泣き声かもしれないし、選挙演説かもしれないし、死体写真かもしれない。
『電気蟻』で描かれる浪人中の少年の存在は、社会や親にとっては正に「ノイズ」である。そして彼は、自分が「ノイズ」であることに自覚的である。それは必要以上に自覚的だ。彼の精神を強く支配するのは、尊大な自己愛である。その自己愛は、自らが「ノイズ」であることに強い嫌悪感を抱くのだろう。それが、社会などから見れば些細な「ノイズ」であったとしても関係はない。
彼にとっての「ノイズ」とは、この、社会からの「ノイズ」扱いそのものにある。これらはあせりを生み、「どもり」という形で、ますます彼を追い込んでいくのだが、だからと言ってそれを積極的に回避しようとはしない。むしろ逆に、(自覚的であっても、なくても)その渦中へと飛び込んでいこうとする。それは少年がヒステリックに、歳老いてなお父親と関係を持つ母親をなじりながら、カセットテープに絡み付かれて射精する場面に象徴的に描かれている。「ノイズ」を聞くという行為は快楽を生む道具であることを、彼はちゃんと示唆しているのである。それは当然マゾヒスティックな被害者としてのものであり、同時に自己に対するサディスティックな加害者としての快楽でもある。
私がこの『パラノイア・スター』の中で最もコアだと思う作品は、『意思の勝利』である。
『意思の勝利』は、タイトルからも分かる通りドイツ第3帝国を舞台としている。そして主人公の少年は、ユダヤ人の血を引きながらドイツ人として生きていくことに執着する。何もかも、「ノイズ」としての象徴そのものの舞台設定である。
その中で丸尾末広は、「不具者だけが指命を持つ生き者だ」と記している。当然それは身体的な意味にとらわれるものではなく、『電気蟻』で描かれた浪人の少年等のスタンスも指している。つまり「不具者」とは、自らが「ノイズ」であることを自覚せざるを得ない人間達のことである。そしてその、「ノイズ」を聞くことのできる人間が破戒者としての圧倒的な動機を身に付ける事は容易に想像できる。また、「不具者」という「ノイズ」な存在は、全くの当事者として、その社会を最もリアルに受け止められるのではないだろうか。「ノイズ」という立場でもなく「ノイズ」を聞くことのできない人間には、自らの指命など見えはしないわけである。指命とは、「ノイズ」という抑圧の下で見る妄想そのものであるのだから。
ただ、彼の描く「不具者」は指命を認識はするが、指命を全うしようとはしない。とても中途半端に、ほとんど選択的に死を選ぶ。丸尾の分身であろう主人公達は所詮本当の(不可避な)不具者ではないからだろう。
丸尾は「保険室の吸血鬼」の中で、「とっくに犬語を理解していた。」と、片耳が聞こえず、また幼くして日本脳炎で死んだ弟のことを表現している。丸尾は弟によって、不具者が別の世界を覗くことができることに気付いてしまったのだ。彼の描く不具者達は、飽くまでも「不具者」にあこがれるだけで、「犬語」という真実のノイズを垣間見て自滅していくしかないのである。だからこそ、私は彼の作品に快楽を見い出してしまうのだが。