Cinema Review

青いパパイヤの香り

監督:トラン・アン・ユン
出演:トラン・ヌー・イェン・ケールー・マン・サングエン・アン・ホアトルオン・チー・ロック

1950年代、ベトナム。10歳の少女ムイは奉公に出される。そこで流れてゆく穏やかな日々。ある日、ムイは長男の友人である作曲家を見かけてほのかな恋心を抱く。時は流れて10年後、ムイは作曲家の家で働くことになる。そして....。

蚊帳の吊られた寝床、陽を浴びてつやつやひかる水に濡れた野菜、裸足の子供。50年代のベトナムの日常風景が、同時代の日本にさえ生きていなかった私にノスタルジックにせまってくるのは何故だろう?日常の中に漂う空気というのはいつの時も、どこの場でもほとんど共通のものである。そしてそれをきちんととらえているこの映画の視点は少女ムイのものであり、監督のものでもある。

この映画の中の日常風景とは、この少女が見ているものである。子供のみずみずしい視覚はどんなささいなものにもピントを合わせてゆく。竹篭の中で眠そうに足を動かすコオロギ。切り取られたパパイヤの茎からたれる乳白色の汁。現実の中であたりまえとして存在しているものたちが、それぞれの美しさをもって浮かび上がる瞬間、それらは自ら光を放って静かに輝きだす。特に印象的なのは、縦に割られたパパイヤの中の種の中に少女が指をさし入れるシーンである。白く真珠のように光る粒に小さな指が触れられるとき、その一種官能性ともいうべき感覚を覚えているのは映像の中の少女だけではない。それをこちら側で見ている私の内もまた、あたたかく溶けだしてゆく。

シクロ』の中で、中年男が少女の足を洗うシーンにおいてもそうであるように、この監督は「触れる」ということに相当こだわりがあるようだ。彼の映像の中ではよく、指があるものに触れる瞬間がクローズアップでじっくりと観察されてゆく。このクローズアップの視線はつまり「意識で触れている」ということなのだろうと私は思う。一般的な考えとして、映像が喚起するものは視覚と聴覚(音声を伴う、たいていの場合)である。が、ある力を持った映像にはその他、触覚や皮膚感覚まで揺り動かすものがある。『青いパパイヤの香り』の中の映像とは正にそういうものであると思うのだ。『シクロ』においてはその辺りの感覚が強調され過ぎ、あざとく感じられるきらいもあったが、『青いパパイヤの香り』は、映像の主体となっている感覚が少女ムイの清れつなものである故、もともとは誰もが持つあたりまえの感覚が、それは純粋に、新鮮に感じられるのである。

Report: Nakazawa Aki (1997.04.30)


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