J.G.バラードの同名原作をデビットクローネンバーグが映画化
デビットクローネンバーグ監督の最新作『クラッシュ』はカンヌ映画祭で特別賞を受賞したものの、数々の国で上映禁止になるだろうと思われている曰くつきの映画であり、物議をかもしているところからすると、おそらく評価も賛否両論になるのではないかと思う。
思えば『戦慄の絆』の時も女性団体からクレームがきたらしい。今回も交通事故によってエクスタシーを感じるとはどういうことだ、交通事故にあって苦しんでいる人の気持ちを考えた事がないのかというこの種のクレームが押し寄せたらしく、インモラルである事に対して引っかかりを感じる人々(決して、それが保守的な考えとは思わないが)にとって非難の格好の材料になってしまった。その問題に関する是非はさておき…
この映画の感想を端的にいうとするならば「融解」「変容」「倒錯」というクローネンバーグフィルムの三大要素を実にラジカルにスタイリッシュに映像化した作品ではないだろうか。
以前のクローネンバーグ作品を観てきた人にとって「融解」「変容」「倒錯」(私の心の中ではその三大要素はもはや様式美にまで高められてしまっている。)は、なじみのものであり、それはクローネンバーグがずっと固執してきた世界であった。ある種のエログロ感覚(内臓感覚など)以上に固執してきた独自の世界がそこにはあり、それを根源的に映像化したものが今回の『クラッシュ』なのではないかと感じる。
ハイウェイに並ぶ車が人のメタファーだという実に表面的、外面的なものから、車体そのものを肉体に置き換えてしまう少し具体的なメタファー。そして、車名のエンブレムをタトゥーにしてみたり、カリスマ的な存在の著名人(例えばジェームスディーン等)の死を真似る事によって、車を介して一体化しようとする人々の肉体的、精神的変容など、ヒューマンとテクノロジーの融合があらゆる形で行なわれていく。又、アンドロギュノスとしてのイメージ、アンチヘテロセクシャリズム等、男女というジェンダーの境界線を一切なくし、対立項が融合し一面化していく様をあらゆる角度で描いていく。
混沌としたカオス的世界に導かれ、そのままエンディングを迎えるというクローネンバーグの作風は、中には意味不明と感じ、混乱を生じるが故に毛嫌いしてしまうむきもあると思うが、そこにはある一定のスタイルが感じられ(それはスペクテーター個人個人の思いは違うにしろ)それをどうにかして模索したいというゲーム的要素のある一種の愉しみがある。そして、そのスタイルが崩れない限り、私はどんな駄作であろうと見続ける気がする。
ところで前作『Mバタフライ』は世間の皆様には余り支持されていないようですが、実に素晴らしい名作、必見です。(原作者David Henly Hwangのトニー賞受賞の同名戯曲のエンディングをアレンジした事に対する意義がこの映画の鍵だと思うのですが…)
まぁ、今回の『クラッシュ』が名作(珍作?)『Mバタフライ』を越える作品になったのかは皆様のご判断におまかせしましょう。(私は期待をしすぎていただけに、ノーコメントしたい気分。)