Cinema Review

外科室

監督:坂東玉三郎
出演:吉永小百合加藤雅也、中井貴一

泉鏡花の『外科室』を坂東玉三郎が映画化

泉鏡花の世界は観念的であると言われこの『外科室』も小説同様、映画も極めて観念的であったが、わずか映画にして五十分、小説にして十数頁という短編でありながら、そこには深くて重い愛が凝縮されていた。この小説が観念的と言われるのはひとえに台詞の少なさのせいだが、映画はカメラを通して主人公二人の視線の動き、しぐさ一つ一つを細かく追っていくことによって二人の内面を捉えている。(その点に関しては小説に比べ映画の方が極めてクリアであり理解しやすいものであった。)言葉以上にしぐさが、視線が彼等の心情の多くを物語っている。言葉に出さない、出せないそのストイックでプラトニックな想いが主題になっているだけに、秘めたる想いを表わすのに言葉は無用なのだろう。それだけに彼等の残した数少ない言葉の数々は重くもあり、深みを増す。

「私にはね、心に一つ秘密がある。眠り薬はうわごとを云うと申すからそれがこわくってなりません。どうぞもう、眠らずにお療治ができないようなら、もう快らんでもいい、よしてください」

手術台の貴船伯爵夫人は旦那や家族たちの説得や懇願を断固として拒絶し、眠り薬(麻酔)を飲もうとはしない。うわごとによって高峰への想いが伯爵に漏れるのを恐れているのだが、死をもってまでしても、この想いは守り通せねばならないという貴船伯爵夫人の情念は、当時の時代背景を考えると当然とはいえ壮絶である。「刀を取る先生は高峰様だろうね!」と確認しながら、彼女は結局、麻酔なしで手術に挑む。そして、メスを持つ高峰の手をつかみながら自分の胸にそのメスを深く突き刺す。その壮絶なる自死は、うわごとによって自分の本心を伯爵に知られてはこの世で生きていくことができないと思ったからなのか、高峰を愛しぬいた故に彼の手で葬って貰いたかったからなのか知る由もないが、ただ「痛みますか」という問に「いいえ、あなただから、あなただから・・・でも、あなたは、あなたは、私を知りますまい!」と答えた伯爵夫人は死を代償にして高峰に告白したことだけは明白だ。高峰との身分の違い、社会的立場の違い以前に夫がいる身でありながら他人を愛するという行為は許されないのである。死をもってしても、この想いは他人に知られてはならず、死を代償にしなければその恋心が伝えられなかったという、まさしく言葉通り命がけの恋なのである。

一方、高峰はメスをとることで、そして伯爵夫人の願いを聞いてやることでこの愛を成就させた。白い胸に赤い血が染まった時すでに高峰の心は一つに決まっていた。

「青山の墓地と、谷中の墓地と時こそ変りたれ、同一日に前後して相逝けり。
語を寄す、天下の宗教家、渠ら二人は罪悪ありて、天に行くこと得ざるべきか。」

この二行のナレーションが全てを物語る。心中・・・後追いする高峰。時は違えど、場所は違えど、二人はこの世を同時に去ることになる。あの世でしか成就できなかった愛をそれでもやはり罪悪というのだろうか・・・。チェロの音が聞こえる。ラフマニノフのソナタが流れ・・・(中原俊監督の『桜の園』のオープニング及びエンディングシーンをフと彷彿させる。)琴に桜も似合うが、チェロの音色もまた絶妙だと感心する。和洋折衷・・・。着物と洋装。色彩感覚も非常に豊かで、小石川植物園での伯爵夫人と高峰の出会いの回想シーンのつつじの色などはそのまま彼等の心情を表わしている。淡い桃色つつじから真っ赤なつつじへと、そしてふたたび桃色にもどって・・・その一瞬一瞬の彼等の情熱の度合が色に出ているのだ。そしてこの桃色と赤の配色は、伯爵夫人の血の色にも言える。伯爵夫人の胸にメスを突き刺した時、二人の想い、特に伯爵夫人の想いは最高潮に達したのだ。燃えるような鮮烈なる赤い血と真っ白な胸の対比。メスを入れる前の白い肌は秘密のベールで想いをまとっている状態だ。そして、想いを告げた後(といっても、暗にしか示さないが。)鮮烈なる赤い血を噴き出す。高峰への情熱を赤で例えるとするならば、これほどよくできた話はないだろう。エンディングシーンのカメラワークも絶妙だ。天に昇ったであろう二人を追うようにカメラは空を映す。そこに映るのはみごとなあわいピンク色の空だ。そう多分、彼等はそこであわい恋をしているに違いない。

Report: Yuko Oshima (1997.01.29)


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