もともと仏教国の日本人にとって、キリスト教の原罪といわれる七つの大罪はあまり馴染みのない概念である。「大食」、「強欲」、「怠惰」、「高慢」、「肉欲」、「嫉妬」そして「憤怒」からなる七つの大罪は、(誤謬の愛)、(不完全な愛)や(過度な愛)から欲する所の大罪であるとされている。
野心に燃える新米刑事と、長い刑事生活に疲れ果て、厭世的にしか世の中を見られなくなってしまった退職間際の老刑事の二人が直面する、「七つ」の猟奇的な連続殺人事件が、この映画の基本プロットである。そして降り頻る雨に濡れ、疲弊し、荒廃し切った名前も明かされぬ都会の片隅で、姿の見えない犯人を追って二人が彷徨う「七日間」が描かれる。犯人が遂行しようとする連続殺人は、マザーグースの歌よろしく「七つの大罪」に沿って行われる。例えば「大食」の罪を着せられた超肥満男は死ぬまで食べ続ける事を強要され、「強欲」のレッテルを貼られた弁護士は、ベニスの商人の様に天秤に盛られた金と同質量の肉を体から切り落とす事を強要される。「怠惰」の犠牲者は栄養の点滴や床擦れの感染予防に抗生剤まで打たれ、一年間もベッドに縛りつけられたままでいた事が判明する。犯人は何故か、七つの大罪に沿った殺人に固執し続けるのだ。二人の刑事は犯人の異常な手口に戸惑い、そして犯人の動機を推測することが出来ないことに翻弄される。殺人の手段や犠牲者の選択も長期に渡る綿密な計画に基づいており、しかも捜査に必要な手がかりすら全く現場に残されていない。残されていたのは殺された者達を紛糾する「七つの大罪」の言葉のみ。
劇中、孤独で厭世的な知識人である老刑事のサマセット(モーガン・フリーマン)は言う。「通りで暴漢に襲われ、救いも無く倒れていたら、今度は両目をナイフで刳り貫かれた。最近近所で起こった事件だ。、、、もう私はついて行けない。」「私は、今の無関心が美徳であるような世の中にはうんざりだ。」、と。そして犯人の動機が明らかになるにつれ、この老刑事はある意味では犯人の気持ちに共感すら感じ始める。そして、そんな自分に嫌悪感をも覚えていくのだ。
それに対し、粗野で野心に燃える新米刑事ミルズ(ブラッド・ピット)は、現代的な価値観の代表例として描かれる。現代社会の内包する矛盾や問題に認識が足りず、また疑問も持てないために犯人の心理状態が全く理解出来ない彼は、その現代的な価値観ゆえに犯人によって抜き差しならぬ立場へと引きずり込まれてしまう。
麻薬によってアメリカ社会は病んでいるとか、銃犯罪に巻き込まれた邦人のニュースを聞く度に、逆に我々日本人はこういったニュースをどう受け止めているのだろうかと考える時がある。確かに日本はアメリカほど麻薬は蔓延ってはいないだろうし、銃犯罪も多くない。しかしだからといって、日本人がアメリカ人ほど病んではいないとは言いきれないのではないかと思う。アメリカは病んだ心を具体化する手段や道具が身近に在り、手に入れやすい社会というだけであって、もし日本も同様に身近にそういうものがあれば同じ様な事になるのではないかとも思う。今の日本には日本ならではの、その病んだ心の表現事象が存在し、ただそれがアメリカほど過激な表現方法をとれないだけであって、もしかしたら表出していない分だけもっと深い病なのではとも考えてしまうのだ。
この映画を観終わった後、自分は様々な事を考えては、暫くの間席を立てなかった。この映画が、一体どんな風に周りの人達には映ったのだろうかとも思った。席を立ち上がりながらそっと見渡すと、50歳台くらいの一人の男性が、じっと席に体を埋めている姿が見えた。きっとこの男性は、サマセットの最後の言葉を反芻しているに違いないと自分は勝手に決めた。「ヘミングウエイは記している。(人生は素晴らしい、戦う価値がある。)、後の部分には賛成だ、、、。」