Cinema Review

M バタフライ

Also Known as:M butterfly

監督:デビッド・クローネンバーグ
出演:ジョン・ローンジェレミー・アイアンズ

デビッド・クローネンバーグの名作!

<あらすじ>
1964年、北京に駐在するフランス人外交官ルネガリマールはある日オペラ『マダムバタフライ』を観てその京劇女優ソンリリンに一目惚れする。彼女の慎み深さに西洋人にはない美を見つけた彼は彼女にあこがれの蝶々夫人的幻想をいだき、東洋的美学へのミステリアスな興味から彼女に近づき付き合い始める。彼と彼女の関係はまるでオペラ『マダムバタフライ』におけるピンカートンと蝶々夫人のようだった。彼は彼女にはまりつつも最終的には彼女を捨て本国に引き上げる。

時は変って1968年帰国したルネガリマールはソンリリンと再会する。そこには恐ろしい真実が待ち受けていた。ソンは中国のスパイであり、しかも信じられぬことに女ではなく男であった。ルネガリマールはソンに言われるまま見ず知らずのうちにフランスの機密情報を流していたのだ。当然の事ながら二人は逮捕される。留置所の中で会話する二人。しかしソンの正体を知ったルネガリマールの心は冷めていた。彼はパリの刑務所内である日突然狂ったように女装芝居を始める。夫台はもちろん『マダムバタフライ』そこで彼は蝶々夫人のラストシーンを演じる事なく自らの命を絶ったのである。

<感想>
刑務所内でルネガリマール自ら『蝶々夫人』に扮し、鏡で首をかき切って自害するクライマックスが実に印象的であった。その行為がもたらす意味を考えるとずしんと重く深い愛が色濃く浮かび上がる。この物語りにおけるメインテーマはそのラストシーン一点に集約されるのではないだろうか?
蝶々夫人』を演じきる事、それは身を持って東洋の美学を受け入れることであり、東洋の美学を本当の意味で知ることである。東洋の美学を知ることがソンリリンへの直接的な愛の行為とするならば、彼の愛は「蝶々夫人の死」をもって成就したことになるし、仮に女性ではなく男性だったという事実やスパイだったという事実が露見した事でソンへの愛着が薄れてしまったとしてもルネガリマールの心には「東洋的美学」が奥底にまで浸透していた事がわかる。「東洋的美学」とソンが分離してしまったとはいえ、ルネガリマールの精神には幻想的東洋美学が残ってしまったわけだ。それは悲劇といってよいかもしれない。何故ならそれは倒錯した東洋の美学に過ぎないからである。

オペラ『マダムバタフライ』における最大の見せ場はやはり何といっても蝶々夫人の自害であろう。「恥を知って生きるよりは死んだほうがまし」現代では考えられない事だが、江戸時代、命じ時代頃まではこういう思想が確かに日本人の美徳として根付いていた。私には倒錯した幻想的美学としか考えられないのだが、それは西洋人にしてみればミステリアスな東洋の美の一つの形として映っていたのかもしれない。

恥を知って生きるより死を選択してしまったルネガリマールは倒錯した東洋の美学による犠牲者であり、ソンリリンの餌食になってしまった崇高なる愛の殉教者と言えるのではないだろうか?確かにルネガリマールはオペラ『マダムバタフライ』に登場するピンカートンの様にソンリリンに対し、慎み深く純情で自分を慕ってくれる東洋人女性の理想像を描いていた。それは西洋人にとっては実に都合の良いもので、男性が支配し征服欲を満たせる女性像でもあり、そこにはずるさも感じられた。しかしソンリリンと付き合うにつれて変化していく。時にはピンカートン的な心情を持ちつつもルネガリマール自身『マダムバタフライ』のオペラを観ているだけにピンカートンにはなりたくなかったのだろう。同族嫌悪に近い気持ちが生まれ、政治的な仕事面にまで影響が及んでしまう。フランス側の考えに反論し中国を容認しているところからも、ソンリリンの影響力の大きさを感じずにはいられない。ルネガリマールにとってソンリリンはファムファタール的存在だったのだろう。彼の人生は「運命の女」の出現によって狂ってしまう。連れてきた子を我が子だと信じ、妻を捨てソンに走ってしまう。そして、事情はどうあれソンリリンが中国側のスパイという事実によって彼は完全に餌食となってしまった。すべては愛故の悲劇である。ラストに演じた蝶々夫人の女装芝居は言うまでもなく彼の精神が完全に『蝶々夫人』化してしまった心の現われであり、それを明確に示した図であろう。彼は自分がピンカートンではなく信じていた愛を裏切られた蝶々夫人だった事に遅まきながら気付いたのである。

一方、ソンリリンはルネガリマールの幻想的東洋美学を逆手にとり巧みに利用し操ってしまう。スパイであること、京劇女優であることを考えれば彼好みの東洋人女性を演じる事ぐらい朝飯前だったに違いない。表面上は蝶々夫人だが実はこちらこそ愛を裏ぎったピンカートンだったのだ。

この物語で私が受けた衝撃はソンリリンが男であった事でもルネガリマールが女装芝居をしたことでもなく、オペラ『マダムバタフライ』をデフォルメしつつも全く逆の展開を見せ、今まで持っていた先入観によるキャラクターに対するイメージがラストのルネガリマールの「蝶々夫人の死」によって完全に覆えされてしまったことであった。ピンカートンであるはずのルネガリマールは実は蝶々夫人として描かれ、蝶々夫人であるはずのソンリリンがピンカートンとして描かれていたそのラストにただただ呆然としてしまったのである。

映像的には、オープニングシーンの豪華絢爛な野外劇場や京劇の舞台の上で演じるソンリリンのマダムバタフライとエンディングシーンの刑務所内でボロボロになった障子と畳一帖の上で演じるルネガリマールのマダムバタフライのビジュアル的な対比が非常に目を引いた。オペラ『マダムバタフライ』(ラストの蝶々夫人の自害シーン)の舞台ではふつう、真っ赤な扇子をそして真紅の布を舞台に広げて血に見せるのだが、ルネガリマールの蝶々夫人はリアリティーがありすぎて、流血のあの生々しさ、怪奇さがいかにもデビットクローネンバーグらしいと思う。

Report: Yuko Oshima (1997.01.11)


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