Cinema Review

秋のソナタ

Also Known as:Hostsonaten

監督:イングマール・ベイルマン
出演:イングリッド・バークマン、リブ・ウルマン


<あらすじ>
有名なピアニストであり家庭に不在がちであった母親シャーロッテは長年、付き合っていた愛人と死別した。その知らせを聞いた娘エヴァは自分の家で一緒に暮さないかと母親に相談を持ちかける。母親はすぐさまその相談を承諾し、7年振りにエヴァの元へと訪れる。そこには脳性小児麻痺の娘レナがいて久々に再会するが、母親は余りいい気分ではない。ただそれでもレナの前では明るく振る舞うのである。その母親の二面性に苦しめられてきた娘エヴァは母親シャーロッテを告発する。自分を捨てて他の男の元へと走った時、自分と父親はどんなみじめな気持で毎日を過ごしたか延々と語るのである。そして自分は母親のいいなりになってきた、と糾弾する。エヴァはシャーロッテにあやまってほしいと願い訴えかけるのだ。シャーロッテも又、自分のその時の辛さを語る。だが、弱気になってしまった母親は娘に訴えかけられて、始めて自分がどう思われていたかを知り、改心するのである。

<感想>
この映画は母と娘の性格を対照的に描くと同時に親子の対立を描いた作品である。ここには母親を悪玉、娘を善玉とする勧善懲悪図があり、娘エヴァは一貫して母親シャーロッテを糾弾していた様に思う。しかし母親非難をすればするほどエヴァの幼児性が露見してしまう為か、私はどうしても母親の肩を持ってしまう。エヴァの様に大人になりきれていない内気な少女に告発された母親はたまったものじゃないと思ってしまう訳である。

シャーロッテの一見、エゴイスティックに見える言動は確かに非難されるべきものかもしれないが、それはわざとエヴァを困らせたいが為にしているものではない。ただ自分に素直に生きる、それが娘にとってはモラルに反している事であり、自分達を苦しめる言動だったというだけの話である。当然、子は親を選べない訳だから誰でも親を憎む事はあるのである。どんな親の元に生まれようと、これだけは宿命なのだから「仕方がない」とあきらめるよりないのである。

たしかに母親に対する恨み辛みはあるかもしれないが、だからといってわざわざ自分の元に引き寄せ、昔の恨みをはらそうと復讐劇にでるなどナンセンスである。よほど被害者妄想が激しいのか「今までの私の辛さをわかってもらいたい」といった次元を超えて彼女は母親を糾弾し報復する。自分も子供を生んだ母親ならもうそれなりの歳だろうし、分別もつくはずである。それができないのは大人になっていない証拠である。母親を見て嫌な思いをしたなら、自分がそんな母親にならないように努力すればいい訳である。そして現にエヴァはそれを実行してきたはずである。子供に同じ悲しみを与えないように接してきたはずである。それで十分ではないかと思うのである。(しかしそれが本当に子供にとっていい事なのかも又、疑問である。というのも、自分が子供の為にと思ってしている行為が必ずしも子供にとって良い行為なのかわからないからである。)

しかしこの映画で重要な事は母親であるシャーロッテも又、母親の愛を知らなかったということである。別にここで、母の愛を知らない子が母親になったからといってよい母親にはなれないなどと言うつもりはない。シャーロッテが母の愛を知らない子であった事の重要性・・・それはシャーロッテも又エヴァと同列に描かれていた事である。にも関わらず、この親子は同じ境遇に育ちながらこれほどまでに対照的な性格になってしまった。陰と陽、内と外、死と生、色々な意味において彼女達はシンメトリー関係になっている。まったく正反対の人間だといっても過言ではない。どうして同じ境遇でありながら、これほどまでに対照的な人間になってしまったのだろうか?

それは、本来なら母親から与えられるはずであろう愛の欠如がもたらす欲求不満がシャーロッテの場合「ピアノ」という手段で昇華できたのに対し、エヴァの場合、昇華する手段を持たず、自らその欲求不満を抱え込んだまま大人になってしまったのだろう。母親に対する憎しみだけが残り、そして、そのまま成長してしまったのである。その点、シャーロッテは賢かった。彼女も苦しんでいる時期はあったが、彼女はその苦しみを取り込むのではなくバネにしていったのだ。シャーロッテが芸術を介して外交的になってゆくのに対し、エヴァは益々、陰にこもり内向的な性格になる。シャーロッテが生身の男性と恋に落ちるのに対し、エヴァは亡くなった我が子を愛し続ける。神との対話になると究極で、もう生身の人間の夫ですら意志疎通ができなくなるのである。(ただ、脳性小児麻痺の妹レナとは意志疎通し合える。)極度の神経症と被害妄想、そして責任転嫁、実に最悪なパターンに陥りながらもエヴァは最後の最後まで母親を告発する。しかも、言葉で誤っても許さない、許せないというのである。では、どうしたら良いのだろう・・・

ラストシーン、エヴァは母親に手紙を送る。表面上はあやまりの手紙だが、書いている内容は実に独善性に満ちたものであった。「今からでも遅くないわ、語り合いましょう」そして、すっかり弱気になってしまっている母は涙するのである。

多分、スペクテーターの多くはエヴァに肩入れしたに違いない。しかし、この勧善懲悪、善玉悪玉図はちょっと疑問である。本当は逆ではなかったか?一方的にシャーロッテを悪者扱いし、エヴァをお涙頂戴の悲劇のヒロイン像に仕立てる、そしてそれを間に受けてしまうのはどうかと思う。「母と娘の対立はそれでどう和解したのか?」という答えも出ていない気がする。

職業をもつ母親が家庭をかえりみず、好き勝手に自由気ままに生きるせいで娘は不幸になった。その反面教師からか娘は家庭に入り専業主婦になり、まっとうでモラルに反しない生活を送っている。それは「人の妻であり人の親なら家族をほったらかしにせず、夫の為、子供の為に尽くすのは当然だ。そしてそれが立派なことなんだ。だから常に家庭にいるべきなんだ。」とスペクテーターに訴えかけている様にも又、見える。この映画をそのまま解釈するとそう受け取られてしまっても仕方がないのだ。そしてそんなステレオタイプでアナクロニズムな考えはやはり今の現代に合っていない様な気がする。現にシャーロッテは家庭におさまり失敗した。シャーロッテが家庭に戻ったから良かったのかというとそうではなく、エヴァはやはり母親に不平を言うのである。自分を干渉しないでくれ、縛りつけないでくれ、オモチャにしないでくれというのである。いままで外の世界に向けてきた情熱を一心に子供に傾けてしまうのだから、シャーロッテが勢い余って子供に色々と口だししてしまうのはわかる。他の事(ピアノ及び男)に対して情熱を傾けてきた人間だからこそ、パッショネイトが人より強く、我が子を理想の子供に仕立てあげようとする強い気持が内在してしまうのである。ただ外に傾けていた情熱を内に適用することは難しく、それに関しては失敗してしまった。家庭に戻ろうが、外にでようが母親非難ばかりしてしまう子供に育ててしまった事に関してはシャーロッテの完全な非かもしれない。では、家庭に収まっていたエヴァの子供が幸せだったか?というとそれはわからないのである。エヴァは子供の為を想ってできるだけの事はし、接してきたとは思う。だがそれが本当に子供の為になっていたのかというとそれは疑問である。エヴァの子供が死んだことにより、答えはでなくなってしまった。エヴァの子供が成長し大人になった時、本当に親に感謝したのだろうかという問も謎のまま、終わってしまうのである。エヴァの子供が成長しそして母親に感謝するならこの話は成立するかもしれないが、そうでもないのに一方的な非難はやはり片寄った考え、意見といえる。そして余りにもシャーロッテ像がエゴイスティックに描かれているが為に、エヴァの肩を持ってしまうような構造になっているこの映画に疑問が残るのである。

Report: Yuko Oshima (1997.01.11)


[ Search ]