ジョン・カサテベス+ジーナ・ローランズ夫妻の名作
<あらすじ>
ニューヨークのとあるアパート。ギャング達を敵にまわしたプエルトリコ人の一家が虐殺される直前、何も知らず偶然そこに出会わせたグロリアが友人たっての願いから6歳の長男フィルを助けだすことになる。暗号をメモった手帳と子供を連れ、ギャング組織の網の目をくぐってニューヨーク中を逃げ回っていたグロリアだが、フィルを追いかける者には容赦無くピストルをぶっとばした。しかし、ギャングの親分の元情婦だったグロリアの追っ手は自分の仲間だった。つまり彼女は自分の仲間を虫けらの様に殺していたのである。フィルから「手当りしだい人を殺しても仕方がない。直接対決しなければ・・・」といわれたグロリアは愛人であるギャングの親分と交渉する決断をする。「3時間して私が帰って来なかったらこのお金を靴下の中にいれて逃げるのよ。」そう指示されたフィルだったが、三時間しても戻ってこないその状況を察知し、逃げ出した。向かった場所はピッツバーグのとある墓地。フィルはそこに亡くなった自分の家族が埋められているのだろうと信じていた。そしてグロリアも又そこにいるだろうと感じたのだった。つまり、殺され亡くなったのだと・・・お墓の前で別れの言葉をいうフィル。しかしその時彼の背後にかすかな人影が見えた。振り替えってみるとそこにはグロリアが立っていたのだ。
<感想>
『グロリア』を見ていると、ふとリュックベッソン監督の『レオン』だといっても差し支えないのではないだろうか?しかし、主人公の心理描写の描き方は『グロリア』の方が数段優れている様に私は感じた。
ジーナローランズ(*ジョンカサテベスは最愛の妻を実に魅力的に撮る事監督だと思う。)扮するグロリアは大股で歩きでたんかを切ってピストルをぶっぱなす、といった限りなく「女」としてのイメージを捨てた女性だが、一方でギャングのボスの元情婦であったり、写真や香水を持ち歩いていたりと決して「女」を忘れない女性でもあった。(女らしさをフと垣間みせる部分、フと優しくみえる部分がグロリアにはある。)しかし「母」というものから一番遠くかけ離れた女性である事も又事実だった。「子供は嫌いよ」「ミルクとは一生縁がないわ」と自ら言ってしまうわ、目玉焼き作りに失敗するとフライパンごとごみ箱に捨ててしまうわ、料理もまともに作れない女性なのである。しかし「家庭の母」には向いていないしもちろん「母」になる気も満更ないそんなグロリアに、友人は我が子を押し付けてしまった。そしてさらに困ったことに押し付けられたフィル少年は生意気な口をたたく男の子だったのだ。「ママはもっと、美人だった。」といって唯一依存できる大人であるグロリアをはねのける。「ママの代わりにはなれない。」と頑なに拒むフィル少年。簡単に依存せず、心の葛藤を見せるところが『レオン』に登場するヒロイン、マチルダはどちらかというと押しかけ女房的だった。もっともこちらは依存関係が途中で逆転しマチルダがレオンに依存しつつも、レオンがマチルダに依存しているといった作りなのだが・・・)フィルはわずか6歳にして子供心を持ちつつも、その半分は大人の精神を持っているような少年だけに、簡単には血も繋がっていないようなおばさんに依存できなかったのだろう。しかしながら、彼は次第に心を分かち合いグロリアに近付いてゆく。初めは父親代わりとして、母親代わりとして依存していった。しかしそれは時が経つにつれもっと別の形に変化していった。家族であり、親戚であり、仲間であり、恋人であり、パートナー。これだけの人間関係を彼等はこの切羽つまった状況のなかで築きあげてきたのである。そして又、グロリアもそのような関係を求め望んでいた。ギャングのボスでありグロリアの恋人だった男は言う。「グロリアも所詮は女だから、子供を見ると情が移ったのだろう。」と。「母性愛とは違う。彼はクレーバーで男として素敵だ。」とはっきり答えるグロリア。確かにグロリアはフィルを邪険に扱いし接していた。(そこには深い愛情が感じられるのだが・・・)しかしそれはすでにフィルを大人扱いしている証拠だったのである。一人の男としてフィルを見、そして一人の女としてグロリアを見る。グロリアがギャング一味の元に乗り込む前の別れ際のシーンで完全に二人は男女としての関係を築きあげてしまったのだ。しかし、その後3時間たっても帰ってこないその状況を察知したフィルはピッツバーグのおそらく両親が埋められているであろう墓地にたどり着く。そこでフィルはこうつぶやく。「お父さん、お母さん、おばさんと仲良くしてあげて・・・」彼の心のなかですでにこの時点でグロリアは元の「おばさん」へと変っていた。恋人だったはずのグロリアはおばさんという元の位置に引き戻されたのである。そして再会する。グロリアとフィルは抱きあう。しかし、そこにはすでに恋人という関係はなくおばさんと子供が抱擁するシーンがあるばかりなのだ。
映像的にはオープニングシーンの数分間が非常に目を引いた。絵画として描かれた摩天楼が次第に実写となり、ニューヨークの上空を映しだす。イーストリバーからブルックリンブリッジ、ヤンキースタジアム、そして自由の女神と映し出され、そのカメラは再びヤンキースタジアムそしてブルックリンブリッジへと戻ってくる。ニューヨークの上空をただ一周しているだけでなく、真夜中から明け方、そして真昼とそこに時間の経過が表われている所が良かった。(人気の全くない夜のヤンキースタジアムと観客で埋めつくされた昼のヤンキースタジアムが実に象徴的である。)ニューヨークの都市全体が生きている。生気が漂っている。そしてこの映画は行き交う人々やニューヨークのその街並をまるごと主人公にしてしまっているのだ。バス、タクシー、サブウェイ、そして二本の足を使って逃避行する二人をメインにうつしつつも、そこには常にごく普通に生活する人々(しかも色々な人種の人々)がうつっていた。つまり、スペクテーターにとってニューヨークはすでにこの二人のものであるように見えつつも、ニューヨークに住むただその一員にしか過ぎない事をもまた示していたのだ。ニューヨークに住む人々や街全体をくぐり抜けて二人はあちらこちらと逃避行した。そして彼等の関係もまたあちらこちらへ移っていったのだ。もっともこちらは逃避行ではなかったが・・・。