ストーカー映画の原点
<あらすじ>
蝶の採集が唯一の趣味であった銀行員のフランクリンはある日宝くじで大金を手に入れたが為に壮大なる構想を練ってしまう。自分がずっとあこがれていた少女を手にいれたいと思ったのだ。(肉体的にではなく精神的にという事が重要である。)彼女に自分を知ってもらい好きになってもらいたい、そう思ったフランクリンはある日、彼女を誘拐する。(蝶を気絶させるようにクロロフォルムで少女を気絶させる。)そして自分の屋敷の地下室へ閉じ込めるのである。その部屋には彼女好みの洋服から本、絵画までそろえられてありなに不自由なく暮せる作りになっていたのだが、絶対逃げることができないそんな地獄に彼女は追いやられてしまった。しばらく抵抗し続けていた彼女だったが、抵抗し続けても埒があかないので従う事にする。彼は「1ヵ月間ここにいてくれ、そして自分と喋って自分を理解して自分を好きになってくれ。」という条件をだす。当然その間、二人の感情は交錯しあっていたのだが、一ヵ月後、今度は結婚をせまられる。やはり外に逃がしてはくれない少女はある日、フランクリンの頭をスコップで殴打する。血みどろになったフランクリンは病院に入院し、軟禁されていた少女はその間、栄養失調からか死んでしまう。フランクリンは悲しむがそれはまるで蝶を標本した時に美しき獲物の命を奪う感覚に似た悲しみであった。そして彼はまたもや次のターゲットを探しに街へと繰り出すのである。
<感想>
『ボクシングヘレナ』(デビットリンチの愛娘ジェニファリンチ監督作品、血は争えないなと思う。)は確かヒロイン、ヘレナに求愛し断わられ続けた医師ニックが思い余った末に彼女の両手、両足を切断した挙句、少女を自分の屋敷に監禁し、ひたすら自分を好きになってもらえるよう尽くすといったストーリーだったと思うが、『コレクター』も又、非常に類似した話である。もっとも『ボクシングヘレナ』は両手両足を切断するといった暴挙に出たので、それはミロのヴィーナスを暗示させるものであったにしろ実に非現実的な話(しかも、やけにSFチックで不自然だった。)になってしまったが、『コレクター』はその点、現実味があって奇妙な物語でありながらも引きずり込まれてしまう。しかも至るところに工夫が凝らされており、やはりどこを見回しても無駄な行動がないのである。そして、このちょっと特異な主人公の微妙な深層心理を実に細部までうまく描いている事を考えれば『コレクター』は『ボクシングヘレナ』より数段上の作品と言ってよいだろう。性がそこには介在せず、俗っぽくない点が非常によい。
この映画は至るところに伏線が引かれている実にうまい作りになっているがベースとなるものはやはり「蝶の採集」と「少女の採集」を掛け合わせた発想であろう。つまり、ここでは蝶=少女の図式が完璧に成り立つのである。まず、衣装からして少女は蝶を暗示させる。常に真黄色の衣装を身にまといブルーのアイシャドウにブルーアイズ、真っ赤なチークと極めて蝶を連想しやすいいでたちなのだ。
次に野原で美しき蝶を追いかけ回し捕まえ、喜々とするフランクリンのオープニングシーンが大きな伏線になっている。蝶を追いかけ網で捕まえるシーンは車で少女をストーカーしだす行動につながるし、蝶を網で捕まえる行動が少女にクロロホルムをかがせて身動き出来ない状態にしてしまう行動につながる。
そして彼は次に蝶を採集しビンの中につめるという行動にでるのだが、それはまったく少女を地下室に軟禁する行動とぴったり一致するのだ。当然、蝶はばたばたと逃げ回ろうとする、と同様に軟禁された少女は部屋から出してくれとばたばた戸をたたく。それを知りながら少女を軟禁できた喜びに踊り狂うフランクリンの姿は貴重な美しい蝶を見つけビンに採集した喜びと同質のものであった。
この「蝶=少女」の図式は後々まで引きずる事になる。地下室の中に軟禁された少女は外出するとき手を縛られ完全に監禁されるのだが、これは「軟禁」が蝶をビン詰めにするイメージとするならば「監禁」は蝶に針を刺すイメージに当てはまるし、フランクリンの標本室(=蝶のコレクションを飾っている部屋)の中で再度クロロホルムをかがせられ身動き出来ない状態にされるシーンはまさに「蝶=少女」の図式を明白に示す形になっているのだ。
彼女はフランクリンから自分の趣味を紹介され標本室に連れていかれるシーンで自分は誘拐目的で監禁されているのではなく、蝶をコレクションする感覚で自分をコレクションされたと事に気付く(現に少女の絵を買うといったフランクリンがサインを頼んだとき「囚人1436号」と書いた皮肉がそれを物語っている)のだが、感の鋭い彼女は直感的に殺されるのではないかという恐怖に怯えるのである。「美しい獲物をあなたは今までいくつ殺したの?」という問に「たくさんのなかからごく少数だよ。これだけしか殺していない」と答えるフランクリンのこの台詞は当然、ダブルミーニングな訳で、そのごく少数の不運なる獲物=自分だと知った時、空恐ろしいものになる。
その後、期限の1ヵ月がたったにも関わらず、自宅に帰れない少女はスコップでフランクリンの頭を叩き付け半殺しするはめになる。血にまみれたフランクリンは逃がすまいと必死になって少女の足をつかまえるが、このワンシーンももちろんオープニングシーンで逃げようとする蝶を網で捕まえているあの状況をまさにフラッシュバックさせるようなつくりになっている。(場所と状況がぴったり一致している。)
3日間、放置されっぱなしの少女は遂に死を迎える。まるで、それは蝶をコレクターするとき命を奪うそのイメージによく似ていた。「美しい獲物から生を奪うの?」自分の運命を暗示するかのように少女がつぶやいたその発言は見事に的中してしまったのだ。確かに彼女の死は悲しむべきことなのだろうがフランクリンは貴重な蝶に針を刺し、標本にするように亡くなってからも数日間少女の顔を眺め続けていた。まるで標本された蝶を見るような感覚で。当然、人間は放置しておくと腐敗していくわけで、彼は彼女の為に墓を建てたが、腐らなければケースの中にコレクションしたに違いない。本当にそんな感覚なのだ。(少女の絵を買うといったフランクリンがサインを頼んだとき「囚人1436号」と書いた皮肉がここで再び浮き上がってくる。)
ラストシーン、少女を亡くしてしまったフランクリンは再び少女(獲物)を探す。ここで挿入されるフランクリンのヴォイスオーバーが空恐ろしい。「この前は、高望みしすぎたから駄目だったんだ。今度は僕を尊敬してくれ僕好みの女にしつけれるようなごく普通の少女を探そう。」と。ここでこの映画のタイトルになっている『コレクター』の意味が浮き彫りにされる。彼は蝶採集の度が過ぎて、たまたま女性にまで目を向けてしまったのではなく、女性をもコレクターする人間になってしまっていたのだ。今までのお話で完結していた訳ではなかったのだと思うとゾッとする(今まで、かなり同情をよせていたのに、裏切られた気分だ)。
フランクリンは美しい獲物である看護婦を車内からじっと見つめる。黒と赤のマントをかけた美しい獲物はここでも蝶を暗示させる。そしてフランクリンのターゲットはいつしか蝶から少女へと変っていた事を嫌がおうにも知らされるはめになるのである。
ここまで「蝶=少女」の関係を述べてきた訳だが、私がさらに感心したのはフランクリンの心理描写が人物描写がよく描けている事であった。「「ふつうのおつきあい」をしたい、そして自分を理解し好きになってもらいたい。求める事はただそれだけ、そのかわり自分はどんなことでもするし尽くします。」そんなフランクリンであったが、頼んでもどうすることもできない、頼まれてもどうすることもできない不条理な関係がここにはあった。
『ライ麦畑でつかまえて』や『ピカソ』の絵が理解できないフランクリンと少女のこのどうやっても埋められない、近付けない、理解できない感覚が彼等自身の関係をも物語っているのではないだろうか?言葉ではどうあがいても説明できない感覚を理解しようとする、でもやっぱりできないというもどかしさがフランクリンの心境にぴったりくる。彼は『ライ麦畑でつかまえて』や『ピカソ』を罵倒する。「どうして理解できないんだろう?」とイラだてる。それはまるでインテリで文化的な象徴である少女に「どうして僕を理解してくれないんだ!どうして分かって貰えないんだ」と訴えかけている様にも請いている様にも見えた。『ライ麦畑でつかまえて』や『ピカソ』が理解できないように彼女から自分は絶対理解されない、この悲しさ、空しさ、せつなさが痛く伝わるワンシーンである。当然階級の違い、文化的レベルの違いがそこにはあるわけで、生まれ育ちの違いが大きな原因だろうが、だからこそ、不当な手段だろうが普通の手段では会話もできないだろう少女に近付き自分を知って貰おうとしたのだ。大金を宝くじで当ててしまったが為にこういう発想が生まれてしまったのだろうが、お金では文化的レベルまでは買うことができないのだ。誘拐まがいに軟禁することで彼女と自分との間を近付けたかったのだろうが、空間は近づけても心は近づけることができない。この難題が最後まで引きずる事になる。インテリに憧れ、インテリゲンチャーである少女を羨望のまなざしで見つめるが、自分と別世界の人間である彼女にどうしても近づける事ができないのである。それは努力でどうなるというものでもないので悲劇が起こる。彼からも歩み寄り、彼女からも歩み寄っているにも関わらず、二人は別世界に住む人達であるが故に永遠に分かり合えることはない。
この映画はただのButterfly の偏執狂が過度になり少女まで手をだし軟禁してしまった話ではなく涙無くては語れない痛くせつない悲劇なのだ。