Cinema Review

親愛なる日記

Also Known as:Caro Diario

監督:ナンニ・モレッティ
出演:ナンニ・モレッティ、アレクサンダー・ロックウェル、ジェニファ・ビールス

映画マニアにしかわからないパロディ映画。上質だが素人にはきついかもしれない。

<あらすじ>
*第一章 ベスパに乗って*(ローマの街をめぐるシネマエッセイ)

丁度夏のヴァカンスの頃。ナンニモレッティは愛車(スクーター)ベスパに乗ってローマの庶民的な古い街から郊外の新興住宅地へと走り抜ける。街ゆく人に必ず声を掛けるモレッティにいきなり話しかけられた人々は少々驚きつつも十年来の友達のように気安く返事をしてしまう。(イタリアのお国柄、国民性がよく表われているワンシーン!)そんなこんなで通りすがりに憧れのジェニファビールスが表われた時もジェニファに向かって気安く喋りかけてしまった。(ナンニは彼女主演の『フラッシュダンス』で人生が変ったほど彼女のファン)しかし、相手にされない。夫とジェニファーとナンニの話(言葉)の行き違いがあったりとイロイロな出来事が起こりながら進むナンニモレッティのローマ案内。

*第二章 島めぐり*(友人とシチリア周辺の諸島を巡った旅日記)

『ユリシーズ』の研究をしているナンニの友人(ジェラルド)は静かな仕事場を求めサリーナ島にゆく。しかし30年前から観ることを止めていたテレビを船内でうっかり見てしまったせいでテレビドラマの続きが気になってしょうがない。その後も静かな街を求め島を転々とするのだが、ある島でアメリカ人観光客を見つけたジェラルドはナンニにドラマの続きを聞いてくれる様にせがむ。テレビ病が高じてしまいテレビが無くては生きていけないのだ。最終的には仕事場に適した静かな島にたどりつくが、その島は電気が通っていず、したがってテレビを見ることができなかった。それを知ったジェラルドはすぐさまその島から飛び出す。

*第三章 医者めぐり* (皮膚病を巡る日記)

原因不明の激しい痒みに襲われたナンニモレッティは評判の皮膚科で診察を受け、薬を飲み続けたにも関わらず一向に治らないので、皮膚学会のプリンスと呼ばれる医者を始め色々な医者にみてもらう事にした。どの医者も診断は異なり、色々な治療法を試してみたが治らず、結局、精密検査を受けると「手遅れのガンだ」と宣告される。そこで真っ青になるナンニだったが、手術を受け執刀した医師に「これは大した事のないガンだから薬で治る」とあっさり言われるのである。医者に振り回されていた事を知ったナンニはバックに映る薬の山を目の前に「食事前に水を一杯飲む事は悪くない」とうまそうに朝の水を飲み干すのだった。

<感想>
ごく少数の人々だけが大笑いし続け、その他大勢の人々は「豆鉄砲を食らった鳩」状態になってしまうという奇妙な光景が生まれた。映画館にはいつもとは違った妙な空気が流れている。「わかる人にだけわかり、わからない人には一生わからない笑い。」それがこんなにも明白に表われる作品を私は今まで見た事がない。完全に場外へ放り出された気分で、疎外感やもどかしさだけが残ってしまった。そして、ちょっとした悔しささえ残ってしまったのだった。

真後ろに座っている3人組だけが(多分凄くよく理解できていたのだろう)100分間中ずっと大声で笑い続けていたおかげで、これが私の笑いの指標となった。そして同時に真っ青にもなった。「これほど笑えるシークエンスがあちこちにちりばめられている映画だったとは!」それすらわかりもしない自分の無知さに驚いた。フェリーニ、アントニオーニ、ロッセリーニ、バゾリーニ等この手のイタリア映画を全く知らない私にとって唯一わかり大笑いできたのはヴィスコンティだけだった。(ということでこの手のイタリア映画につよい人はオススメです!!)ヘルムートバーガーの事については『地獄に墜ちた勇者ども』を皮肉ったものだったし、『ヴェニスに死す』に使われた海岸らしき所を主人公は歩いていた。それから光の巨匠(ヴィットリオ)ストラーロの皮肉もわかった。この3点だけが私が唯一わかった笑い。「せめてこれがイタリア映画ではなくハリウッド映画であったなら今よりはもっとわかったかもしれないのに!」とクローネンバーグの『裸のランチ』や(ジョナサン)デミの作品、『ワイルドアットハート』(デビットリンチ)を絶賛した批評家が眠りに就く前に目の前で自分が書いた批評を朗読され泣き出すシーンを見て大笑いしていた私ははっきりそう思った。(ジェニファビールズが旦那のアレクサンダーロックウェルと登場したシーンも大笑い!)

しかし、ハリウッド映画ならそれは巷に多くあふれ出ているパロディー映画がすればいいことでこの映画はその手のパロディ映画とは一線を画している。それはイタリア映画を紐解く歴史を追っていったり、イタリア映画の行方まで描かれていたり、イタリア人の思想、国民性が表われていたりするからだ。そういった意味ではたわいもないごく日常的な極めてパーソナルな話(題材)でありながらも奥深い映画だったと言える。

しかし「わかる人にだけしかわからない」笑いだけかと思いきや、万人が理解できる笑いもちゃんと用意されていた。第二章では30年間テレビを見ずすごせたはずの『ユリシーズ』の研究をしているモレッティの友人が船中で一度テレビを見てしまったばかりに、テレビが無くては生きてゆけない人間になってしまう。(至るところにテレビが置いてあったせいで彼はますますテレビの虜になってしまい、アメリカ人観光客に向かって崖の上からテレビドラマの続きを聞く姿はなんともl滑稽である。)静かな環境を求める為に旅にでたモレッティーと彼の友人だったが皮肉にも目的地に辿りついた時、電気が通っていず、テレビが見れないじゃないかと目的とは相反する理由からその島を立ち去ってしまうのだ。そこにはテレビが無くては生きていけない人間、今まで見なくても生きていけたのに一度見てしまったばかりに見ずにはいられないテレビの魔力が表われている。サリーナ島での話も象徴的だ。一人っ子が多く、電話の取り次ぎすらままならない状況のこの島では親より子供の方が優先されている。子供を大切にするばかりか親はいつも我慢をしなければならない。大切な用件があったとしても子供達のたわいのない話の方が最優先である。そこには自分を犠牲にしてまでも子供を大切にする親(しかも一人っ子の親によく見られる)の姿、そしてそれをいいようにわがままし放題に育つ子供の姿が描きだされている。第三章では主人公が医者にふりまわされ、たらい回しにされるという現代の医療状況が皮肉にも笑いとして捉えられている。そこには「医者はいかに多くの事を喋りたがり、いかに患者の話を聴こうとしないか」といった教訓も描かれている。

斜に構えた姿勢で痛烈なる批判をユーモアを交え実にアイロニカルに表現したものが「風刺」というものならば、この映画はかなり風刺の効いた映画とも呼べる。ただの笑いではなく現代社会におけるいくつかの問題を風刺した映画、それを「風刺」ととるか「ただの笑い」ととるかはスペクテーターにかかっているような気がした。

Report: Yuko Oshima (1997.01.11)


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